こころの電話

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7月15日~人間のつとめとは…

 梅雨が明け、本格的な夏到来です。

 さて先日、ご法事でYさんのお宅に出向いた時、東京から久しぶりに帰ってこられた同級生の息子さんとお会いしました。中学校の卒業式以来の再会です。互いに、しばらくの間にいい年齢になったのものだと言葉を交わしました。

 Yさんは私の頭を見て、「おお、白髪が出てきてるね」と言いました。その言葉に、私は彼の頭を見て返す言葉がありませんでした。なぜなら、彼の頭には髪がほとんどなかったからです。

 また、メガネをかけてお経を読む私に、Yさんは、「もしかしてそれ老眼鏡か」と聞きました。まさしく私は老眼鏡がないと、お経も新聞も本も読むことができません。お互いに、「年を取ったね」と語り合うことでした。

 私たちよりはるか先輩の方々からすると、まだまだ若い世代かもしれません。しかしながら、五十歳を前に、少しずつですが老いの兆候は体の至る所に表れつつあります。

 西本願寺の御門主さまは、人間の老いということについて、「老いゆくさま、さらには死んでいくさまを、子や孫をはじめ周囲の人々に知ってもらい、考えてもらうというのは人間のつとめではないのでしょうか」とおっしゃっています。

 そして、「『いのちながらえば老いゆくのが人間だ、おまえたちは将来、老いをどう生きるのか、私はこのように生きているぞ』と子や孫に示す。その世に無駄なものや無意味なものはない。老いも尊いということを伝える大切な役目です」と申されています。

 「老いて死んでいく姿を見せていくことが自分のつとめ」と聞かされたときに、老いていくことも決して無駄なことではないと思えます。

 Yさんも私も、今からさまざまな老いや病いを経験し、苦しんだり悩んだりすることがあることでしょう。しかし、心の片隅にこの御門主さまのお言葉をしっかりととどめておきたいと思います。

7月15日~人間のつとめとは…2009年07月17日【100】

7月1日~今の若い世代の人たちは…

 梅雨のただ中、連日、雷が雨空に鳴り響いています。

 さて、仏教の禅宗でよく使われる言葉に、「脚下照顧」という言葉があります。脚下とは自分の足元、照顧とは照らし顧みると書いて、自分の姿と心を顧みるという意味で、自分が今どのような立場にいるのかよく見極めて事に当たりなさいということです。

 先日、この言葉を味わう出来事がありました。ご門徒のYさん宅へ、ご主人の三回忌のご法事に出向いたときのことです。

 いつもの通り、お経とご法話を勤めた後、会食になり、Yさんの子ども・三人姉妹のご主人方は皆四,五十代、私と同じ世代の方々。自ずと話題が一緒になりました。テーマは、「今の若い世代の人たちは常識を知らん」ということです。

 一人のご主人は、「今の若いもんは、荷物のくくり方さえ知らない。それくらい常識なのに」とおっしゃいました。

 一人のご主人は、「今の若いもんは、仕事場で自分の置かれた立場や、相手を思いやる心、また責任感がない」とおっしゃいました。

 私も負けてはいません。「今の若い人たちは、上司から言われないと仕事をしない。私たちの頃は自分から進んでしてたものだ」と言いました。

 世代が同じ私たちの、「今の若い者たちの批判オンパレード」です。

 しかし、その時です。会食で私の隣に座っておられた年配の方が、私たちに向かって、「だけど、そんな若者たちを育てたのはお前たちであり、お前たちの家庭や社会じゃないのか」と一言おっしゃいました。

 一瞬その言葉に、私たちは一様に口を閉ざしました。確かにその通りです。私の子どもも既に大学生、若い者のうちに入ります。私たちがそろって批判をした若者の中に入ります。

 親である自分たちのことはさておいて、若者の批判を一方的にしてみても、心にはむなしさだけが残ります。脚下照顧~自分の姿と心を顧みなければならないのは、親世代の私たちの方かもしれません。

7月1日~今の若い世代の人たちは…2009年07月02日【99】

6月15日~われかならず聖にあらず…。

 毎年のことですが、梅雨入り宣言があったとたんに雨が降らなくなりました。 さて、先月末に、政治評論家で仏教を学んでおられる宮崎哲弥さんと雑誌の仕事でお会いしました。

 大阪のホテルで、一時間ほどお話をしたのですが、宮崎さんはその折、今の世は、社会の正義感覚の中に、大きなゆがみが発生しているように思うとおっしゃいました。 

 それは、ちょっとした過ちや間違いが起こると、よってたかって叩くという土壌が社会の中にあるということで、マスコミにはその傾向が大変強いということです。もちろん企業の不正や食品偽装などはいけないのですが、一部の会社のことなのにすべての会社がそうであるかのように人々の不安をあおり、結果として社会全体の利益にならないことが多くあるということです。

 宮崎さんは、その原因に、社会の奥底に本来あるべき信頼感や安定感が失われているからだといわれます。

 毎日の仕事や生活に追われて、自分の立場を守るのに精一杯。自分自身をゆっくり見つめるゆとりなどなかなかないのが、今の社会に生きる一人一人の姿かもしれません。しかし、本当の自分の姿や心の有り様を知ることなくして、お互いの確かな信頼感が築けるものでしょうか。

 私たちは、周囲の人に何か間違いや過ちがあれば、すぐにそれを指摘し、問いただしたくなるものです。しかし、仕事においても、家庭生活においても、時と場合によっては、ウソをついたりごまかしたり、また過ちや間違いを犯しながら生きているのが私の現実です。

 人間が、私は正しい、私の言うことが正義だと標榜したときに、大きな間違いを犯してしまいます。その典型的な例が、残虐きわまりない戦争です。

 仏教を信仰された聖徳太子が、有名な十七条憲法の中で、「われかならず聖にあらず、かれなからず愚かなるにあらず、ともにこれ凡夫ならくのみ」と示されますが、そのような自覚が互いに会ってこそ、まことの信頼感が生まれます。このような時代だからこそ、仏さまの教えを聞かせて頂くことが大切なことと、改めて思うことでした。

6月15日~われかならず聖にあらず…。2009年06月20日【98】

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