こころの電話

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10月15日~その香り一瞬にして…

 十月も半ばを過ぎて、朝夕はかなり冷え込むようになりました。

 さて、私は、毎朝六時前から約四十分かけて、六キロほどジョギングをするのが日課となっています。

 空気が澄んだ秋の早朝に走るのは、大変すがすがしく、そしてさまざまな香りが漂っています。

 道路脇に咲くキンモクセイは口では表現できないほどかぐわしく、また朝露に濡れる緑からは、体の中が洗われるほどすがすがしい香りがします。

 牛を飼っておられる家のそばからは牛の糞の香りがしますが、これも決して鼻をつくようなものでなく、何とも懐かしい思いさえします。

 どの香りもそれぞれに特徴があって、それぞれによい香りですが、それが車道に出ると一変します。車の排気ガスや工場から出る煙で一瞬にしてそれらの香りはかき消され、またそれらと混ざって鼻をつくような香りに変わってしまいます。

 私は人間の世界も同様なのかもしれないと思いました。人も一人ひとり、それぞれにこの世にいのちを恵まれ、それぞれ毎日一生懸命生きています。それぞれに性格を持ち、さまざまな環境の中で生活をしています。早朝のいろんな香りといっしょで、人も皆それぞれにすばらしい性格を持ち、いのちを生きています。

 ところが、多くの人々が集まると、また多くの機械に取り囲まれると、さまざまな人間関係や環境の中で、その一つ一つのいのちの素晴らしさがかき消されてしまいます。一人ひとりの素晴らしさや特徴が濁されて、見えにくくなってしまいます。

 しかし、私が毎朝走る秋の早朝のように、その一人ひとりの素晴らしさを教えてくださるところがあります。それが、お仏壇です。

 朝にお仏壇の前に座り、南無阿弥陀仏とお念仏を申しお参りします。夕べにまたお念仏を申しお参りをします。

 「あなたのいのちはかけがえのない大切ないのち、同様にあなたの周りのいのちも等しくかけがえのない尊いいのち」。そんな仏様のお声が聞こえてきます。

 秋のすがすがしい早朝に、仏さまの尊いはたらきを味わうことです。

10月15日~その香り一瞬にして…2009年10月17日【106】

10月1日~運動会やイベントのシーズンに…。

 高い空に鰯雲が浮かんでいます。

 さて、一ヵ月ほど前の話です。お仕事で、鹿児島市内にある西本願寺鹿児島別院に出向きました。

 会議が行われる会場に入る前に、本堂に行き阿弥陀様にお参りをしていると、私を遠くから呼ぶ声がしました。それは、私が別院に勤務しているとき、よくお参りに来てくださっていたMさんの声でした。

 久しぶりにお会いし、わずかな時間でしたが、お話をすることができました。 Mさんは、「私はもう九十になります。お陰さまでまだこのようにして自分でお参りに来ることができます」と、ご高齢になってもお寺参りができることを、大変喜んでおられました。

 その後のことです。久しぶりに、私と打ち解けたMさんは、「今年は、桜島が久しぶりに噴火して、よく灰が鹿児島市内に降ってきます。洗濯物も車も汚れます。町を歩くと灰にまみれて大変、時にはあっちに行ってくれればいいのにねぇ」と、おっしゃいました。

 「あっちってどっち?」と私が聞くと、Mさんは、「そりゃ大隅半島の方よ」と言われました。

 「Mさん、大隅には私の家があるのだけど…」。それを聞いてMさんは、「あっ、恥ずかしい」と、慌てて口を手で押さえられました。Mさんは、私の自宅が大隅半島にあることを忘れていらしたのでした。Mさんも私も大笑いしました。

 しかし、Mさんだけではありません。私も同様です。

 洗濯物や車が汚れてしまう火山灰が降ってくると、なぜこっちに降ってくるのか、違うところへ降ればいいのにと、つい思ってしまいます。

 テレビで、大型台風がこちらへ向かってくる予報を見ると、つい、他の地域へそれてほしいと思い、それを口にします。

 人間は、自分の都合によって、つい自分さえ、自分の地域さえよければいいという心が沸いてきてます。

 秋は、運動会やイベントのシーズンです。自らの心や言動を少しふり返ってみましょう。

10月1日~運動会やイベントのシーズンに…。2009年10月01日【105】

9月15日~うわべだけの見方こそ…

 新型インフルエンザが次第に広がりつつあります。手洗いやうがいをこまめにしましょう。

 さて、秋のお彼岸が近づいてきましたが、お彼岸は、普段の自らの生活を顧みる大切な期間です。

 今より遙か昔、インドであった出来事です。インドの北部、山岳地帯に一人の修行僧がいました。名前は周知されてはいませんが、大変厳しい修行を積んだ真面目でりっぱなお坊さんでした。

 その修行僧が久しぶりに都に降りてくると、ちょうど都では、王さまがお寺にたくさんのお坊さんを招いてご供養をされているところで、その修行僧もご供養を受けようと、お寺に行きました。

 すると、修行僧の衣があまりにもボロボロだったので、門番はこじきではないかと思い、「わたしは僧侶です」と幾度となく言っても、信用してくれませんでした。

 そこで、修行僧は、友人の僧侶のところへ行き、立派な衣を借りて再度お寺の門へ行くと、門番は深くお辞儀をして、丁寧に中へ通してくれました。

 お寺の中に案内された修行僧の前には、次々にご供養のごちそうが運ばれてきました。すると、修行僧はそれらを食べることなく、身につけていた立派な衣を脱いで、その衣の前にごちそうをおきました。

 それを見た王さまは、「どうして私の供養を受けてくださらないのですか」と聞きました。すると修行僧は、「わたしがボロボロの衣を身につけていると、この食事はいただけなかった。立派な衣に着替えたらこのご供養を受けたので、ご供養は私にではなく、このきれいな衣にされたものだ」と、こたえました。

 わたしたちは、ともすると、うわべだけを見て人を判断しがちです。上等の服を着ている人は立派な人、ボロで安い服を着ている人はよくない人と見てしまいます。このうわべだけでの見方こそ偏見と差別のスタートです。この物語は、その人間の浅はかさを伝えています。

(参考:仏教法話大辞典・すずき出版)

9月15日~うわべだけの見方こそ…2009年09月16日【104】

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