こころの電話

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4月16日~他人は他人、自分は自分。

 春の暖かな日差しに、新緑がまばゆいばかりに輝いています。

 さて、新しい年度が始まり、新社会人にとっては、希望に満ちた道が開かれました。
 どのような職業であっても、楽な仕事ばかりではありません。時には「雑用」と言われる、あまりお金にならない、また評価もされない仕事をやらざるを得ないときがあります。特に、新人と言われる人たちには、雑用をしなければならないことが多いと思います。

 だれしも、「雑用」をやりたくはないし、ましてさせられたくないものです。

 日本で、曹洞宗といわれる禅の教えを開いた道元禅師が、中国・宋に留学されたときにこのようなことがありました。

 夏の暑い日に、年取った食事係のお坊さんが椎茸を干していました。道元禅師が、「お年はいくつですか」と聞くと、「六十八歳です」と答えました。

 道元禅師が、「あなたのようなご高齢のお坊さんが、暑い日に、このような雑用をしなくてもいいではないですか」と言うと、そのお坊さんは、「他はこれ吾にあらず」と答えました。他人は他人、自分は自分。自分は自分に与えられた仕事をただするのみという意味です。

 続いて、道元禅師は、「それはよくわかりました。であれば、こんな暑いときにしなくても、涼しくなってからすればよいのではないですか」と問いかけると、そのお坊さんは、「いずれの時をか待たん」と答えました。このことは後にしよう、後回しにしようと言っていたら、大切な時を逃してしまう。大切なのは今だという意味でしょう。

「雑用なんかやりたくない」そう考えてはいけません。そう考えるとますますその仕事が嫌になり、おもしろくなくなるものです。

 ご高齢のお坊さんが道元禅師に言われたとおり、自分は損得など考えずに、自分に与えられた仕事をただするのみ。そして大切なのは今、それを逃したら本当に大切なものまで失ってしまう。そう思ってやるのが一番良いことです。
                         (参考・仏教法話大辞典)

4月16日~他人は他人、自分は自分。2009年04月16日【94】

4月1日~目が覚めたら生きていた

 桜の花が散るときは一斉に、お寺の境内は連日桜吹雪です。

 さて、今テレビで一番人気がある司会者は、皆さんご存じのみのもんたさんです。

 歯に衣着せぬ発言や他者に厳しい批判を展開する司会者として有名ですが、そのスタイルがうけて、出演する番組は常に高視聴率を得ています。

 一日睡眠時間が約三時間の超多忙。今や司会者として不動の地位を築いたみのさんが、いつも大切にしている言葉があるそうです。

 「朝が来た 新しい朝が来た 自分のための新しい朝だ」という言葉です。

 この言葉は、みのさんが大学を卒業しアナウンサーとして放送会社に入社したものの、それほど際立った評価を得ることができず、いったんお父さんが経営する会社に勤め、アナウンサーの仕事を続けるか、その会社を継ぐか不安定なときに、お父さまがみのさんに対しておっしゃった言葉です。

 「おい、お前はどうしたんだ。ほら今日も朝が来たぞ、また新しい朝が来たんだぞ。お前のために朝が来たんじゃないか。粗末にしたらもったいないぞ」

 みのさんは、その言葉を聞いて一念発起して再び放送界で頑張ることを決め、それ以来毎日大切にしている言葉だと、先日テレビでおっしゃっていました。

 私はこの言葉を聞いて、浄土真宗の僧侶で生涯を「いのちの教育」に捧げられた東井義雄先生の、「朝、目が覚めたら生きていた。今日も生かされていた」という言葉を思い出しました。

 朝目が覚めたら生きていたという不思議。もしかしたらこのまま目が覚めなかったかもしれない。そのいのちが今朝もまた生かされていたという感動。その不思議と感動を深く味わうところに、また今日も新しい朝が来た、自分のための新しい朝だという思いがわいてくるのではないでしょうか。

 東井先生はほかにも、「最高に不思議なもの いのち それが今ここにある」など、「いのちのただごとでなさ」を伝える数多くの言葉を残しておられます。 これらの不思議と感動は、日々仏さまに手を合わせ、仏法を聞き重ねるところに開かれる世界であります。

4月1日~目が覚めたら生きていた2009年03月30日【93】

3月16日~遺骨に執着してはならぬ

 早春の強い風に、山桜が揺れています。

 さて、先日、ある女性からお骨についての相談を受けました。

 私は後妻ですが、この度、主人が長い闘病の末亡くなりました。四十九日のご法事が終わるまで、その主人のお骨はお仏壇に安置していたのですが、いよいよお墓に納める時が来て、先妻のお骨が安置されているお墓に一緒に納めることを躊躇しています。

 主人のお骨と先妻のお骨とを一緒にすると、やがて後妻である私が死んで、そのお墓に私のお骨が入ると三角関係になってもめるかもしれません。

 といって、主人と私のお墓を別に作ると、先妻が寂しがるかもしれません。いえ、恨まれることになるかもしれません。私はどうしたらよいでしょうか。

 おおよそこのようなご相談でした。

 私はまずその奥様に、「先に亡くなられた先妻様は、あの重い墓石の下、暗くて湿った場所にいらっしゃるのでしょうか」と聞きました。奥様は答えられませんでした。

 次に、「あなたは、その命が尽きたなら、あの重い墓石の下、暗くて湿った所に行かれますか」と聞きました。奥様は、ハッとしてうつむかれました。

 その奥様は、まるで亡くなった方が、お墓の下で、この世の思いを持ち続けながら生きているように思っておられたのです。

 親鸞さまは、「私が死んだなら、私の遺体は加茂川に投げ入れて魚の餌にでもしなさい」と遺言を遺されました。なぜなら、親鸞聖人にとって、死後、阿弥陀如来の極楽浄土に往生することは確実だからです。だから遺骨に執着することを厳しく戒められたのです。

 私たちは、この世の命が尽きたなら、必ず仏さまの国・お浄土に往き生まれるのです。お浄土は、この世の一切の悩み苦しみから解き放たれた世界。従ってこの世の因縁を引きずるような浅はかな世界ではありません。

 お彼岸の季節です。親鸞さまの真実のみ教えを聞きましょう。

3月16日~遺骨に執着してはならぬ2009年03月16日【92】

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