こころの電話

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2005年7月15日

七月も半ば、「暑いですね」が、毎日のあいさつ言葉です。

さて、今月七日、イギリスでまた同時爆破テロが起きてしまいました。たくさんの方々が亡くなり、負傷され、不特定多数の人々をねらうテロという行為に恐怖を感じると同時に、憤りを感ぜずにはおれません。

犯人が特定されつつありますが、いずれにせよ、なにがしかの強い怨み、怒りを持もって行ったには違いありません。

先日、西本願寺の大谷光真ご門主がお書きになった「明日には紅顔ありて」の中に、このようなエピソードが紹介されていました。

第二次世界大戦が終結し、敗戦国となった日本に対し、各国から賠償請求がなされたとき、当時、戦勝国イギリスの統治下にあったセイロン・現在のスリランカは、損害賠償を放棄したそうです。その時のセイロンの外務大臣・ジャアワルデネ氏は、サンフランシスコ講和条約締結の席上で、このお釈迦さまの言葉を引いて賠償請求を放棄する演説をしました。

「もろもろの怨みは怨み返すことによっては、決して鎮まらない。もろもろの怨みは怨み返さないことによって鎮まる。これは永遠の真理である」

大谷ご門主は、「戦後の日本の発展は、こうした仏教徒の心によって支えられてきたということに、今一度思いをはせてみるべき」とおっしゃっています。

世界では、様々な紛争が勃発し、幼い子ども、女性、ご老人、たくさんの方々いのちを失っています。日常、人のいのちを奪うなら犯罪とされるところが、戦場では人を殺すことが英雄という、人間の不条理な現実を直視すべきです。

「すべてのものは暴力におびえる。すべての生き物にとっていのちは愛おしい。おのが身にひき比べて、殺してはならぬ。殺させてはならぬ」ともお釈迦さまは述べられました。

皆それぞれ、自分のいのちほど大切なものはないのですから、自分の身にひき比べて、ほかのいのちを大切にしようということが、重要なことです。

テロや戦争を遠い国のこととせず、自らの問題として問い直してみましょう。

2005年7月15日2005年07月15日【13】

2005年7月01日

梅雨に入りましたが雨が降りません。農作物に影響がないか心配する毎日です。

さて、世の中は寒天、ところてんブームのようです。どこのお店でもよく売れているそうで、この火付け役はあるテレビ番組だったようです。

でも、寒天やところてんがノーカロリーで健康食なのは昔からよく知られたことで、今さら…と思いながら、わが家の冷蔵庫を開けてみると、ご多分に漏れずちゃんとところてんが入っていました。テレビ番組の影響はすごいものです。

テレビが世に現れて、街頭のモノクロテレビに映る力道山の姿に皆が酔いしれてから約半世紀が経ちました。ご法事に出向いても、どこのお宅も、今や大型カラーテレビがデンと置いてあります。日本人が引っ越しをするときにまず持っていくもの、引っ越しをしてまず設置するもの、いずれも一位はテレビです。それほどに、私たちの生活とテレビは切っても切れない間柄になっています。

しかし、一昔前までは、家庭の中心はお仏壇でした。神道の家庭は神棚でした。引っ越しの時も、家庭でのあらゆる行事の時も、まずお仏壇が中心でした。しかし、知らず知らずのうちに、それに変わって家庭の中で絶対的な位についたのがテレビです。

幼稚園の園児が、「私のお母さんは、朝の忙しい時間に、テレビのワイドショーの占いコーナーを全部見るのに必死なの」と言っていましたが、まさしくそれを示しています。

やらせ番組や作られた感動ドキュメント番組など、数えればきりがないのに、依然としてテレビへの信用性は揺らぎません。

テレビが悪いということではありません。テレビはありとあらゆる情報をふんだんに伝えてくれる文明の結晶とも言うべきものですが、問題は内容が真実かそうでないかということよりも、いかに人々の興味をそそるか、人の目を奪うかということが最優先されるものであることを、常に心しておかねばなりません。

いかに人の興味をそそるか…ということは、いかに人の欲をかき立てるか…ということに他なりません。人の欲は正しい教えを持たないと無限大に広がります。

自分たちが創り出した文明の利器に、いつの間にか支配されてしまっていることに気付く智慧だけは持ちたいものです。

2005年7月01日2005年07月01日【14】

2005年6月15日

梅雨に入り、あじさいの花が一段と輝く季節となりました。

大修復中の本堂も、いよいよ完成間近、すばらしい大屋根が出来つつあります。

さて、梅雨の時期、長雨が続くと私たちは、「蒸し暑い」「うっとおしい」などとつい不平を漏らすのですが、五月初旬、玄奘三蔵の軌跡を訪ねて、シルクロードに行ったとき、その不平を反省させられることがありました。

シルクロードの一行程、トルファン、ウルムチというオアシスが発展した町に行ったのですが、果てしなく続く岩山と砂漠、年間降水量がわずか四十ミリという所では、お酒より水の価格の方が高いのです。もちろん水道水は不衛生で飲めませんので、渇きになれていない日本人の私たちは、どこへ移動するにも必ずペットボトルを持たなければなりません。

日本で生活していますと、顔を洗うときも、食器を洗うときも、お風呂にはいるときも水道からふんだんに水が出て当たり前のように使っていますが、それがなんと有り難いことでしょうか。また逆に、私は普段、水を大変粗末にしていることにも気付かされました。

思えば十年前、兵庫県で起きた阪神淡路大震災で直ちに現場に駆けつけたとき、被災地は全く水がない状態でした。私たちが鹿児島からトラックで救援の水を運んだとき、神戸の方々は遠方からこぞってもらいうけに来られましたが、その時、一人のご老人がおっしゃったことが今でも耳に残っています。

「私は、水がなくなって、水の有り難さが、今ほんとうに分かりました。地面が揺れて、地面の揺れんことの有り難さが、今ほんとうに分かりました」

ご老人がおっしゃる通り、人間は愚かなもので、なくなって初めてその有り難さや尊さが本当に分かるのかもしれません。

しかし、「ご恩を思えば行動を」という言葉がある通り、普段の生活のかなで、その有り難さを感じたときに、それを思いだけにとどめるのではなく、少しでも行動に移すことが大切です。それが水であれば節約をする。子や孫たちとその大切さについて話し合うこともよいでしょう。

梅雨の季節です。恵みの雨に感謝しましょう。

2005年6月15日2005年06月15日【15】

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