こころの電話

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2005年11月1日

晩秋から初冬へと、寒さが日に日に増してまいります。

さて、先日テレビのニュース番組で、四文字熟語を知らない若者がますます増えつつあるという放送がありました。

以前、「弱肉強食」を「焼肉定食」と書いた若者がいて、驚きと笑いを誘ったことがありましたが、それがますます進んでいるというのです。

四文字熟語の中にも、仏教の経典から出たものがたくさんあるのですが、その中に、「一水四見」というのがあります。「いっすい」とは数字の一に水、「しけん」は数字の四に見ると書いて「一水四見」です。

これは、私たち人間が水と見るものでも、人間以外の生き物が見ると異なったものに見える、という考え方を示しています。たとえば、人間が水と見るものを、天人は宝石でできた大地、地獄の住人は泥であふれた池、魚は自分の住処や道路と見るというのです。

これは人間同士でも同じです。私が美人と見る女性でも、私の友人は不美人と見ることもあります。逆に友人がいい人と見る人でも、私はそうではないと思うこともあります。人それぞれ、その人のモノサシによって見方が変わってくるのです。

「蟹は甲羅に似せて穴を掘る」といいます。大きな甲羅の蟹は大きな穴を、小さな甲羅の蟹は小さな穴を掘る。つまり、人は分相応の思いや行いをすることのたとえです。

ということは、私たちは、自分の器量で人や物事を見て判断しているわけです。器量の大きな人、心の広い人は、温かい目で、大きな視野で人を見ますから、相手をよく見ることができます。もっと言うと誰でも受け入れることができます。

したがって、もし私が相手を嫌いな人、悪い人と見るならば、それは自分の見る目が狭く、心が小さく、冷たいからだと反省する必要があるようです。

「一水四見」。人それぞれ見方、感じ方は異なりますが、自分の周りの人を、だれでも受け入れられるような、広い心の持ち方を、仏さまの教えに学びたいものです。

2005年11月1日2005年11月01日【6】

2005年10月15日

食欲の秋です。

さて、宗教評論家のひろさちやさんが、スリランカに旅をしたときの出来事です。

魚市場のある小さな魚屋で、木の台の上に、三十センチほどの魚が一匹乗せられて、その横に三人の男が立っていました。

「あななたちは何をしているのですか」と、ひろさんが尋ねると、「私たちは魚を売っています」と男たちは答えました。

続いて、「これは、今日最後の魚ですか。この魚はどこから仕入れたものですか」と聞くと、男たちは、「いえ、今日は最初からこの魚一匹だけです。これは私たちが海から捕ってきました」と答えました。

それを聞いて、ひろさんは唖然としたそうです。そして、「大の男三人して一匹の魚を売りに来る必要はないのではないですか。一人が売って、あとの二人は魚捕りに行けばいいじゃないですか。もっと儲かるように考えなければ。あまりにものんびりしすぎだと思うんですが…」と、男たちに問いかけました。

すると、三人のうちの一人が、「でも、今日はこの一匹だけを売れば充分だ。あしたの魚は、あしたまた海に行って捕ってくる。それで充分だ」と答え、もう一人の男が、「海にはいつでも魚がいるから…」と付け加えたそうです。

この言葉を聞いて、ひろさんは、私たち日本人が忘れ去った大切なことに気付かされたといいます。

つまり、「欲少なくして、足るを知る心を持ちなさい」ということです。つまり、今日はこの一匹の魚で充分だ。あしたの魚は、あしたまた海で捕って、あしたを過ごせばよいという、つつましやかな生活です。一匹だけであれば、もし売れなかったら、彼らの家で食べればよいのです。冷蔵庫が普及していないスリランカでは、二匹も三匹もあれば腐らせてしまうのです。

冷蔵庫に入れればいいじゃないかと思いますが、あしたの魚はあした捕れば、海の魚は一日だけ長生きができます。

文明の進んだ人類だけが、もののいのちを必要以上に奪い、保存しながら生活をしているということを、食欲の秋、心のどこかにとどめていたいものです。

2005年10月15日2005年10月15日【7】

2005年10月1日

コスモスが風に揺れる季節となりました。

さて、覚照寺の本堂は、ご門徒の皆さまの志によって、昨年から今年にかけて大修復を行い、内外ともに立派な本堂になりました。

ご法事で来られたご門徒方が、まるで自分の家がきれいになったように喜んでくださり、本当に嬉しく思います。

この工事は、主に山口県の宮大工によるものですが、この棟梁が工事中にいつも言われたことは、覚照寺の本堂は、シロアリや戦争の機銃掃射で被害を受けた屋根以外は、70数年を経た今でも、不思議なくらいしっかりとして、ほとんど狂いがないということでした。

その訳は、新築当時、とても質のよい材木を使用していることと、地固めの基礎がとてもよくできているということです。

現本堂は昭和4年から6年にかけてできたのですが、総工費が41,386円で、当時としては相当な金額で、これによって質のよい材木を調達できたのです。

また、ご高齢のご門徒方から、現本堂が新築されるときは、集落ごとに出向いて、地固めのための地付きを皆人力で行ったり、木材のろう磨きを手で行ったと聞きました。

つまり現本堂は、先輩ご門徒方が手かけ隙かけしてそろえて頂いたすばらしい材料と、しっかりとした基礎によるものであり、言い換えると、先輩ご門徒方の仏さまを敬う心が凝縮された建物であるということです。

私はこのことを大変有り難くお聞きしました。と同時に、これは人間も同様のことが言えると思いました。

つまり、人間としての基礎がしっかりできているか。子どもを育てる親の身でありながら、手をかけ隙をかけて、子どもの、人間としての基礎をしっかりと築いてあげることができているかどうか、ということです。

本堂のように、心身共に基礎が整っていなければ、長い人生の中で、強い風や、大雨に絶えることはできません。

一人の人間として、自分自身の基礎ができているか、これから人生を生きぬいていかなくてはならない子や孫たちの基礎は果たしてどうか、あらために考えてみたいものです。

2005年10月1日2005年10月01日【8】

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