3月16日~遺骨に執着してはならぬ
早春の強い風に、山桜が揺れています。
さて、先日、ある女性からお骨についての相談を受けました。
私は後妻ですが、この度、主人が長い闘病の末亡くなりました。四十九日のご法事が終わるまで、その主人のお骨はお仏壇に安置していたのですが、いよいよお墓に納める時が来て、先妻のお骨が安置されているお墓に一緒に納めることを躊躇しています。
主人のお骨と先妻のお骨とを一緒にすると、やがて後妻である私が死んで、そのお墓に私のお骨が入ると三角関係になってもめるかもしれません。
といって、主人と私のお墓を別に作ると、先妻が寂しがるかもしれません。いえ、恨まれることになるかもしれません。私はどうしたらよいでしょうか。
おおよそこのようなご相談でした。
私はまずその奥様に、「先に亡くなられた先妻様は、あの重い墓石の下、暗くて湿った場所にいらっしゃるのでしょうか」と聞きました。奥様は答えられませんでした。
次に、「あなたは、その命が尽きたなら、あの重い墓石の下、暗くて湿った所に行かれますか」と聞きました。奥様は、ハッとしてうつむかれました。
その奥様は、まるで亡くなった方が、お墓の下で、この世の思いを持ち続けながら生きているように思っておられたのです。
親鸞さまは、「私が死んだなら、私の遺体は加茂川に投げ入れて魚の餌にでもしなさい」と遺言を遺されました。なぜなら、親鸞聖人にとって、死後、阿弥陀如来の極楽浄土に往生することは確実だからです。だから遺骨に執着することを厳しく戒められたのです。
私たちは、この世の命が尽きたなら、必ず仏さまの国・お浄土に往き生まれるのです。お浄土は、この世の一切の悩み苦しみから解き放たれた世界。従ってこの世の因縁を引きずるような浅はかな世界ではありません。
お彼岸の季節です。親鸞さまの真実のみ教えを聞きましょう。
2009年03月16日【92】