6月1日~まことの親に遇う
日ごとに気温が上昇し、草木の生長が著しい季節です。
さて、四月より京都の龍谷大学に勤務することになりましたが、この大学では、毎朝、勤行・おつとめをして一日が始まります。
深草キャンパスには顕真館という大きな礼拝施設があって、毎朝、教職員や学生の皆さんが共々にお勤めをして一日が始まるのです。
私もお参りをさせていただくのですが、あらためて有り難いなと思うことは、私たちが仏様にお参りをし、み教えを聞くということは、まことの親の姿に出遇わせていただくことだということです。
ひとりの人間が、人生を生き抜いていくということはとても大変なことです。
学生は学生なりの悩みや苦しみがあります。社会人になると社会人なりの悩みや苦しみを背負わねばなりません。
もし結婚をし、子どもに恵まれたならば、子育ての問題や経済的な問題、家族の問題を背負いながら生きていかねばなりません。
しかも、その悩みや苦しみは、一人ひとりそれぞれに重い問題で、優劣をつけることもできません。
「まことの親に出会う」、つまり仏さまに出遇うということは、そのような悩みや苦しみを背負っていかねばならない私に、いつも寄り添い、励まし、支えてくださる親を、心に確かに感じながら生きるということでありましょう。
この娑婆世界で自分自身が背負った様々な問題は、自分自身で解決していかねばなりません。その悩みや苦しみを即座に解決してくれたり、安易に子に代わって代理人を務めるような親はまことの親ではありません。
悩めるわが子をつねに案じ、時にはよき方向性を示し、時には励まし、時には戒め、時にはともに泣き、その子が挫けずに人生をしっかりと歩んでいけるようつねに寄り添うのがまことの親のありようです。
私たちが毎日手を合わせ、お念仏を称える信仰の中に、そのまことの親を確かに感じることのできる生活が開かれるのです。
2012年05月29日【169】