7月16日~せめてその時だけは…
夏に吹く熱くて乾いた風を温風と書いて、あつかぜと読みます。
さて、仏事に関わる仕事をしていると、時折残念な言葉やお話を耳にすることがあります。
先日、覚照寺のご門徒のご兄弟が、遠方でお亡くなりになり、そちらの葬儀社にお葬儀を依頼されたそうです。
滞りなくお葬儀が勤まり、出棺して火葬場に着き、ご遺体を火葬の釜にお見送りをした後のことです。
葬儀社の方が、「それでは、火葬が終わるまでに約二時間ほどかかりますので、近くにお寿司屋さんがありますから、そこでお食事を取ってらしてください」とおっしゃったそうです。
それを聞いたご遺族のひとりが、「お寿司屋さんですか?このようなときにそれはちょっと…」
それに対して葬儀社の方は、「そう気にされないでいいですよ、最近は皆さんそうされますよ」
葬儀社でお弁当が手配できないのか、近くにお寿司屋さん以外の食堂がないのか、どのような理由があるのかわかりませんが、大切な方を亡くし、悲しいお葬儀の後、しかも荼毘に付されている直中に、生き物で、生ものを頂くという感覚。またそれを、最後のお別れのお世話をする葬儀社の方がお勧めになったことを、私はとても残念に思いました。
少し前までは、身内の大切な人を亡くしたとき、通夜、葬儀、初七日ほどまでは、身近な家族はお精進の食事で過ごしたものです。
お精進とは、大切な人を失った時に、せめてその時、その期間だけは、同じいのちを持つものの、同じ血を流すもののいのちを奪うことを控えようという、仏教徒の慎みです。
時代とともに、先人たちが伝えてくださった行為が薄れ、尊い心が失われていくことを残念に思いますが、せめてお葬儀の日当日ぐらいはお精進でお食事をというのは無理なことでしょうか。共々に考えてみたい事柄です。
2011年07月16日【148】