1月15日~誰も代わってはくれない。
イスラエル軍とパレスチナの紛争はいつ停戦するのでしょうか。犠牲者が千人を超え、しかもその中に女性や子どもたちが多数含まれると聞きます。誠に痛ましく何とか話し合いの場をと願わずにはおれません。
さて、「昨日の明日、明日の昨日」という言葉があります。持って回った表現ですが、実は「今日」のことです。私たちの人生において、この「今日」という日が来て欲しくなかった。「今日」という日を信じられないということがあります。
今月十二日の夜、隣のお寺の若院さんから、「父が今日亡くなりました」というお電話を突然いただきました。父とはご住職のことです。一夜のうちに急逝されたとのことです。
十二月初旬に、報恩講にお参りしお話をしたばかりでした。訃報を聞いて、私はさっそく出向きお勤めをしたのですが、布団にお休みになるご住職のお姿を目にしたとき、何とも口では言い表せないむなしさにかられ、頭なのかが真っ白になり、普段諳んじているお経のご文が口から出てきません。坊守さんも若院さんも涙を流しながら聞いておられました。
人生とはなんとはかないものでしょうか。また明日会えるとということがかないませんでした。そして、今日この日が信じられない、いや信じたくないことが起きるのです。
私は『仏説無量寿経』の中にある「人は、一人で来たりて一人で去るものである。人は、一人で生まれて一人で死んでいくものである。そのいのちの現実を誰も代わってくれるものはいない」というお言葉を、その場でまざまざとかみしめました。
十五日に大隅地区十四のお寺のご住職によってお葬儀が執りおこなわれ、多くのご門徒方が会葬くださいましたが、亡きご住職への感謝と共に、「誰も代わることのできないいのちの現実」を、一人ひとりが深く心にとどめることでした。
2009年01月16日【88】