9月16日~人生を生き抜いた人として
黄金色に実った稲穂の上を、輝く風が吹き渡ります。
さて先日、NHKラジオで青森県のシブタニさんというお方が、「八十一歳と十八歳」という言葉を紹介しておられました。
どんどん歩いて行くのが十八歳 よろよろと歩いて行くのが八十一歳
大人の階段を上るのは十八歳 家の階段も上れないのが八十一歳
年をとると目に見えて足腰がよわくなっていきます。
心がもろいのが十八歳 骨がもろいのが八十一歳
恋に溺れるのが十八歳 風呂に溺れるのが八十一歳
あぶないあぶない、年をとるともろくなるところも、溺れるところも違います。
まだ何も知らないのが十八歳 もう何も覚えていないのが八十一歳
自分探しをしている十八歳 皆が自分を探している八十一歳
長寿社会になると、年寄りを取り巻くまた新たな問題も出てきています。
どれも人間の一生を端的に表している言葉ですが、自分の今と照らし合わせてみていかがでしょう。クスッと笑ったり、しみじみと考えたり、それぞれの反応があることでしょう。
これらを仏教的に表現するとどうでしょうか。年をとると、それなりに様々な別れを体験し、それなりに老いも病も経験し、いのちを深く見つめる機会もあるものです。
気恥ずかしくてなかなかお念仏が出ないのが十八歳 いつでもどこでも堂々とお念仏が出るのが八十一歳
日々お念仏とともに日暮らしをしたいものです。
いのちの行き先がまだまだわからないのが十八歳 いのちの行き先がお浄土とはっきり言えるのが八十一歳
長い人生を生き抜いた人として、子や孫たちに自分のいのちの行き先をはっきりと言える年寄りでありたいと思います。
2020年09月16日【364】