2月1日~お骨を見るたびに…
インフルエンザが流行っています。予防に努めましょう。
さて先日、お母様を亡くされたご門徒宅に納骨の法事に出向いた時、お嬢さんが私に、「本当に母は往ってしまったのですね。今日まで毎日、お骨の箱を見るたびに、しみじみとそのことを感じました」とおっしゃいました。
遺骨とは命あるものの最後の姿であり、その姿を通して、人は必ず死なねばならないこと。そして愛する人、頼りとしている人と、いつぞやかは悲しい別れをしなければならないことを、後の残る人々に伝える大切な存在であることを、あらためて知らされました。
一方、先般テレビで、遺骨を灰にして海や山に蒔く、いわゆる散骨に関するニュースが流れていました。
自然を心から愛される人もおられましょうが、どちらかというとお墓を求めにくい都会に多く、自分が亡くなった後のお世話をしてくださる人がいないなど、様々な事情や思いが、このような傾向を生んでいるのでありましょう。
お骨をどうするかという問題については様々な考え方があり、各々自由で否定されるものではありません。
ただ、私個人のことに限って申せば、「自然に帰る」という方法はただ今考えられません。それは、私自身のいのちは阿弥陀如来のご本願にお任せするので、自らの遺骨に執着するものではないのですが、自分自身の生活を顧みる時、誠に恥ずかしながら、本当に自然に寄り添って生活をしているのか。多くのいのちが互いに支え合いながら存在する自然のことを見つめながら生活をしているのか、疑問に思うからです。
衣食住、自分の生活のすべてが自然と無関係なものは何一つありません。生きている間にそのことを真剣に見つめ、実践できていない自分自身が、死ぬ時だけ一方的に「自然に帰る」とは、たとえ僅かな粉塵であったとしても、言えない気が致します。
家族の遺骨とはどのような存在か。そして自らの遺骨をどのように受け止めるのか、あらためて問わねばならない時代が来ているようです。
2018年02月01日【302】