10月1日~本当の原因見失う危うさ
運動会の季節、運動場からは、元気な子どもたちの声が聞こえてきます。
さて、先月末、熊本でまた悲しい事件が起きてしまいました。
心身の調子を崩した中学二年生の娘に、悪霊が憑いているので、除霊のために滝行と称して、椅子にベルトで手足を縛り、顔面に大量の水を浴びせ、それを今年の三月頃から百回以上も繰り返し、ついには死亡させてしまったという事件です。死因は窒息死でした。
容疑者は、なんとその女子中学生の父親と、宗教団体の僧侶でした。父親自ら流水に喘ぐ娘を押さえつけ、僧侶は隣でお経を読んでいたといいます。
テレビで事件を知り、どんなに苦しい思いをしたであろうか、まことに胸が締め付けられるような思いがしました。
容疑者の父親と僧侶は、「暴行ではない。除霊すれば治るので、『滝行』を行った」「除霊のためにしたことで死に至ったはずがない」と供述しているそうですが、これが暴行・虐待ではなくてなんでしょうか。僧侶が所属する宗教団体は、その教えの中にこのような行為はないと表明しています。
人は、思いもしない災難にあったときや、なかなか解決できない難事に遭遇したとき、悩み苦しみ、時に原因を他に押しつけたり、また正しい理が分からなくなったりするものですが、ここに至るまでに別の道を探し得なかったのか、まことに残念に思います。
病を治すのは、その病の原因に応じた専門の病院であって、滝行や読経では決して直るものではありません。
仏教の開祖であるお釈迦さまは、火を焚いて穢れをなくそうとしている人たちに、「火を焚いて穢れがなくなるのであれば、鍛冶屋さんがもっとも穢れがなく清らかなはずだ」と言い、水によって穢れをなくそうとする人たちに、「もしそうであれば、魚や亀やワニが一番穢れが少ないはずだ」とおっしゃっています。
これは、心の外側のことである形式的な儀式や、外的なことのみにとらわれていては、物事の本質や、本当の原因を見失ってしまう危うさを説かれたものです。
常日頃から心にとどめておきたいことです。
2011年10月05日【153】