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5月1日~「大きな物語」と「小さな物語」

 風薫る季節となりました。

 さて、お寺では毎朝、仏前でお経をお勤めをして、そこに説かれている教えを学ぶのですが、仏さまのことも、お浄土のことも、ご修行のことも、そこに説かれる内容がとてつもなく広く長い、いわば非常識な内容だと、つくづく思うことがあります。

 そのことについて、現在「NHKこころの時代・歎異抄にであう」の番組で、宗教学者の阿満利麿先生が、わかりやすくお話しくださっています。

 阿満先生は、その私たち人間の常識を越えた仏さまのみ教えを「大きな物語」とたとえておっしゃいます。

 一方で、私たちの一人ひとりの日常は、「小さな物語」を繋ぎながら生きていると…。子どもの成長や、家を建てたり、旅行をしたり、あるいは親の介護をしたり、自分の老後を考えたり、それぞれの人生設計を立て、いわば一つ一つの小さな物語を繋ぎながら人生を送っていきます。

 しかし、人生にはまさかという、思わぬ出来事がだれにでも起こります。突然の病や事故など、自分自身にも、家族にも、いつ、どこで、どんなことがあるかわからないのが人生です。

 「なぜ私に、なぜ私の家族に、このようなことが起こるのか」「なぜ、このような悩みを背負わなければならないのか」。常識では解決のできないような苦しみや不条理を経験することがあります。

 阿満先生は、仏さまの「大きな物語」とは、そのような人間と人生に、究極的な意味を与えるものであるとおっしゃいます。そして、常識では解くことができない人間の直面する人生の問題に、「大きな物語」は常識では考えられないような時間軸を使って、あるいは常識を越えた智慧をもって、人間の抱える問題を解決へと導いてくださるとおっしゃいます。

 なお番組は、9月までの第三日曜日朝五時から、再放送は同じ週の土曜日午後一時から、NHKのEテレで放送されます。ぜひご覧ください。

5月1日~「大きな物語」と「小さな物語」2022年05月01日【403】

4月16日~平和を守る難しさ

 年度初め、日々仕事に追われながら過ごしているうちに、テレホン法話の変更を失念してしまいました。申し訳ありません。

 さて、二月二十四日に、ロシアが隣国ウクライナに侵攻を開始して、二ヵ月が経過しようとしています。

 この間、テレビでは毎日ウクライナの状況が報道されますが、日々伝えられる痛ましい惨状に、胸が詰まるような思いであります。

 お釈迦さまは、「己が身にひきくらべて 殺してはならぬ 殺させてはならぬ」とおっしゃいましたが、ウクライナの現状を自分自身の問題として考えるとき、平和を守ることについても、その難しさを感ぜずにはおれません。

 お釈迦さまは、「世間はわれと戦うけれども、われは決して世間と争わない。仏さまの教えを語る者は、世間のいかなる人とも争うことがない」と話されたと伝えられます。

 しかし、自分の周囲が平和な状況だとそう言えるかもしれませんが、この度のウクライナのように、他国から一方的に攻められたときに、我が身を守るため抵抗することなくそう言えるのか。

 この度は多くの一般市民が犠牲になったと伝えられますが、自分の周囲に幼い子供やお年寄りがいたならば、武器を持つことなくそう言えるのか。

 戦争の経験もなく、過酷な戦場もまったく知らない私は、いざという時、どのような態度を取るのか想像もつきません。

 この度のウクライナの惨状を目にするたびに、戦争が始まったとき、武器を持つことなく、平和を唱えることは大変難しいことを感じます。

 しかし、お釈迦さまは、仏教徒は平和が基本であると教えられました。たとえ、どのようなことがあろうとも仏教徒は武器を持つことを否定し、戦争に協力しないことを教えられました。

 ウクライナの方々へ、支援の募金しかできないことを申し訳なく、もどかしい思いですが、平和の問題を己がこととして、考えたいと思います。

4月16日~平和を守る難しさ2022年04月23日【402】

4月1日~人間とはどのような生き物か

 新年度新たなスタートというのに、ウクライナの様子が報道されるたびに心が痛みます。

 昔々、インドのある国に起きた出来事です。

 あるとき、その国に毒を含んだ大雨が降りました。その雨にうたれると、七日の間、気がおかしくなってしまうのです。

 前もってそのことを知っていたその国の王様は、急いで家来たちに知らせようとしましたが、間に合わず家来たちはその雨にうたれ、また飲んでしまいました。 そして家来たちは気がおかしくなり、皆裸になって踊り出し、王様のいる宮殿に押しかけました。

 宮殿にいた王様を見て、家来たちは叫びました。「大変だ、王様は気がおかしくなられた。服を着ておられるぞ」。正気ではない家来たちから見ると、服を着ている王様の方がおかしく見えるわけです。

 賢明な王様は機転を利かして、「そうか、私は気がおかしくなったらしい。急いで薬を飲もう」と言って、薬を飲むまねをして、そして服をぬぎ、家来たちとともに踊り、家来たちは自分たちと同じ姿の王様を見て安心しました。

 七日後、ようやく毒水の効果も無くなり、家来たちは正気にもどりました。そして自分の裸の姿に驚いて慌てて服を着ました。再び王様の姿を見て家来たちは騒ぎ出しました。「大変だ。王様が裸でおられるぞ。気がおかしくなられた」。

 王様は家来たちに言いました。「私は大丈夫だ。今までおまえたちに合わせていただけだ。みんなが正気に戻ったようだから、私もそろそろ服を着よう」。

 その国は再び、もとどおりの平和な国になりました。

 このお話は、多数の人が正しい、賛成だと言っても、それが間違っている場合もあることを教えています。

 逆に、多数の人が間違っていると思っていても、権力の座にいる一人の人間の偏った思いで、皆が悲しみ苦しむことにもなります。

 人間とはどのような生き物か、常に聞かせていただく教えが大事なようです。

4月1日~人間とはどのような生き物か2022年04月02日【401】

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