11月16日~いのちの現実知らされて…
先日、お仕事で揖宿の山川町に行きましたが、十一月というのにハイビスカスの花が咲き乱れていました。
さて、私たちは、常日ごろより、いのちは避けられぬ、いのちは予測できぬ、ということをお聞かせいただきます。先般それをあらためて知らされる出来事がありました。
坊守の父親が十月末に、この娑婆の縁がつきてお浄土に参りました。肺がんで、九月に手術は受けたものの進行が早く、享年七十五歳でありました。
私と坊守は、仕事の合間を見つけては坊守の実家である大阪に飛び、病院にお世話に行きました。そして、義父がまだ話ができる間に、孫である私の子どもたちも連れて行きました。
特に、小学四年になる長男は、七人いる孫の中唯一の男の子で、義父も大変かわいがっていましたし、息子も義父が大好きで、お見舞いに行っても、義父の車いすを押して散歩したり、ベットに二人並んで座って、楽しく会話をしていました。
病状がいよいよ悪化し、私と坊守は再び大阪に駆けつけましたが、子どもたちは学校もあり、最後の時が今日か明日か明後日かわかりませんので、連れて行くことができませんでした。そして十月二十八日の明け方、いよいよ息が途絶え、お念仏とともにお浄土に参りました。
二十八日の夕刻、私と坊守は、大阪から、鹿児島にいる息子に義父の死を知らせました。「大阪のおじいちゃんはね、頑張って頑張って、最後まで精いっぱい頑張ったけど、とうとうお浄土に参られたよ。おまえに有り難うと、言ってね」。
息子は、「なんでや」と叫んで泣き崩れました。そして、「また元気になって、散歩しようと約束してたのに…」と、言いながら泣きました。
いのちのこと、「なぜ、どうして」ということが必ずある。いのちのこと、「あんなに固い約束をしてたのに…」ということが必ずある。それがいのち現実なのですね。
義父はすでに三七日を迎えますが、長男は毎夜、お仏壇の前で、お念仏を称えてお参りをする日々です。
2009年11月15日【108】