3月1日~その身かけた真剣な供養
一雨毎に春が近づいてきます。
さて、一月から二月にかけて参りましたインドの仏跡参拝旅行では、あらためて多くのことをお釈迦さまに学びました。
八十歳になられたお釈迦さまは、ヴァイシャリーから生まれ故郷に向かって、最後の旅に出られました。
来る日も来る日も、至る所で村人に説法をされながらの旅でしたが、パーヴァー村に立ち寄られたときに、お釈迦さまを心から慕う鍛冶職人のチュンダが供養を申し出て、それを受けられました。
チュンダは最下層の貧しい生活の人でしたが、それでもお釈迦さまに精いっぱいの供養をしたいと思い、きのこ料理を差し出しました。が、残念なことにそれが腐っていて、ご高齢のお釈迦さまはそれが原因で激しい下痢を伴う腹痛に苦しまれ、そして死が決定的になります。
仏伝によると、実は、お釈迦さまはチュンダの料理が腐っているのを分かった上で食べたと言われます。つまり、最下層の貧しいチュンダの精いっぱいの供養である料理を、有り難く召し上がったというのです。
また、「チュンダを非難してはならない。チュンダには責任はない。チュンダはすば
らしい食事の供養をしただけだ」と、チュンダをかばい、気配りをされてもいます。
私は、この供養という言葉に厳しさを感じます。供養とは、仏さまを心から敬いお香や灯、食べ物などを奉ることですが、それは、供養によって代償を求めるのでなく、あくまで仏さまへの尊敬の思いをあらわすものです。
とても貧しい家庭のチュンダは、自分にできる精いっぱいもの供養をしました。お釈迦さまもそのチュンダの心をうけて、たとえ腐っていようとも有り難く食されました。互いにその身をかけた真剣な行為です。
そこには、仏さまをお敬いする心以外、何ものも存在しません。
仏事を勤めるときに、この供養の心を大切にしたいものです。
2007年03月03日【43】