2月1日~有り難さがわかるとき
春の到来を待ち望んでいる顔を「春待ち顔」と言いますが、今年は皆が「コロナ収束待ち顔」ではないでしょうか。
さて、一月十七日は阪神大震災の日でした。二十六年前の午前五時四十六分に発生。鹿児島から被災地へ支援物資とお見舞いをお届けに出向いたことを思い返しながら、早朝本堂で犠牲者の皆様を追悼してお勤めをしました。
当時、被災地でお話をしたおじいさんが、「地面が揺れて地面が揺れんことのありがたさがわかった」、「水道が出んようになって、初めて水道のありがたさがわかった」とのお言葉を毎年思い出します。
私たちは、ともすると日々の生活を当たり前と思いがちです。
毎朝顔を洗って食事ができて、仕事ができて学校に行けて、お客さんが来てお商売ができて、たっぷりのお風呂につかって夕食がとれて、毎日すべてのことが当たり前のように過ぎていきます。
病気になれば薬局で薬を買って、あるいは病院に行って治って当たり前と思いがちです。
果たしてそうでしょうか。今日一日、私が生きていること自体が当たり前ではないのかもしれません。
私は人間に生まれたいと思って生まれてきた人がいるでしょうか。無数の人の縁によって恵まれた命です。食糧難に遭うこともなく、事故に遭うこともなく、戦争に遭うこともなく、地震や水害に遭うこともなく、今の今、私は生きていますが、これは果たして当たり前なのでしょうか。
新型コロナウイルス感染の収束が未だ見えない日々の中で、当たり前と思っていた日々が当たり前でなかってことに、あらためて気づかされます。
当たり前と思って暮らしてきた一つ一つが、有り難いことであることを心に刻みつつこ、慎みと感謝の生活を送りたいと思います。
2021年02月01日【373】