8月16日~人を弔うということは…
今年もお盆の行事が終わりました。
お寺には、初盆をお迎えになったご家族が、堂内に入りきれないほどお参りになり、ご法要を勤めました。また、自宅での初盆法要にも出向きました。
いずれのご家庭も、今生でお別れをした方をあらためて偲び、お念仏を申しつつお参りをされました。そして、久しぶりに遠方からお帰りになった家族・親戚が集って和やかなひとときを過ごされたことでありましょう。
元来、人間にとって、親しき方を弔うことは悲しいこと、淋しいこと、辛いことではありますが、一方で、その親しき方の死という一大事を通して、縁あるものが集い、そこに集う一人ひとりがいのちの結びつきを確認し、自分自身の人生やいのちを深く見つめる機会となれば、それは大変意義あることと言えます。
ご門徒のTさんは、今年二月にお父さまを亡くされて七月に四十九日、そしてこの度初盆でした。
お話を伺うと、自宅のお仏壇で「お正信偈」のお勤めを始められたそうです。「一生懸命お勤めするのですが、なかなかじょうずにできません。『お前、そんなことじゃ、ダメじゃないか』と、父から言われているような気がするんですよ」と、おっしゃっていました。
先日は、もっと練習したいからと、お寺に模範のCDを求めに来られました。
きっと、お父さまとのお別れがなかったら、また生前仏事を大切にされたお父さまの姿を見ていなかったら、このような行為に至らなかったことでありましょう。
人を弔うという行為が単に儀礼儀式のみに終わるのではなく、亡き方を弔うことを通して、あらためて亡き方と向かい合い、その別れというものが自分の人生にどのような意味があるのか。そして人の死という悲しみを通して、自分自身のいのちを深く見つめ、仏さまのまことの教えに出会う機縁となるならば、人を弔うことはとても素晴らしいことと言えましょう。
2017年08月16日【291】