4月1日~大切なお育てをいただく
お彼岸はとっくに過ぎたというのに、今年はなかなか暖かくなりません。
さて、浄土真宗のご法事は追善供養ではないと言われます。
追善供養とは、私が亡くなった方の冥福を祈ったり、亡くなった方のために修行や功徳を積んだりすることで、浄土真宗のご法事にその必要がないのは、ご本尊である阿弥陀如来が一切の生きとし生けるものをもらさず必ず救うという、まこと真実の願いにすべてをお任せするからです。
また、阿弥陀如来のまことの光に照らされた私たち人間の姿は、常に愚痴や不平不満に満ちていて、怒りや腹立ち、妬みや嫉みの心が絶え間なく湧き出ていて、そのような自分さえも全うにコントロールできない私が、実は、亡くなられた方のために役立つことなど到底出来ないことを知らされるからです。
浄土真宗は、阿弥陀如来の願いに照らされた自らの姿を、誰よりも厳しく見つめられた親鸞さまの導きによりますので、その信仰の有り様には寸分の人間の思い上がりも甘えもありません。
しかし、亡くなられた方への思いも決して忘れてはなりませんし、生前にご縁をいただいた方へ感謝の思いで何かしてあげたい、何かしなければと思う心も、人間として自然なことでありましょう。
そこには、手を合わせて亡き方を心から偲ぶ姿があります。故人が好きだった食べ物や飲み物を求めて供える姿もあります。お花やお香を求めてお供えする姿もあります。その一つ一つの思いや行為も、亡き方を偲び感謝する人としての尊き姿であります。
ただ一つここで大切ことは、その感謝の思いと行為一つ一つまでもが、実は亡き方のはたらきによるもので、その仏さまのはたらきによって、私が人として忘れてはならない大切なお育てを、既に今いただいていることです。
亡き方を偲ぶ心、感謝の思いを通して、私たち一人ひとりにはたらいている阿弥陀如来の願いを聞かせていただくご縁につながれば、ご法事はさらにすばらしいものとなりましょう。
2017年04月01日【282】