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12月1日~合掌のできない子どもたちに…

 あと一ヵ月でお正月というのに、それらしからぬ陽気です。

 さて先般、仏教界で最古の新聞の『本願寺新報』の編集長を二十年間お務めになった三上章道先生から、『合掌ができない子どもたち』(白馬社)という著書をお送りいただきました。

 「合掌ができない子ども」とはいささかショッキングなタイトルですが、長年新聞に携わってこられた先生が、合掌ができない子どもたちとの出会いを契機として、そのような子どもたちが生まれた戦後の、日本の社会的な背景を考察されたものです。

 三上先生は、現代の日本は、政治や経済、教育や文化、情報や芸能など、すべての中核がおかれてる東京首都圏に、「死について触れない生き方」あるいは「無宗教の生き方」、浄土真宗的に言えば「お浄土がない生き方」をしている人多いのではないか。

つまり、私はいついかなる時に、どうなるか分からないいのちを抱えながら生きているのであり、だからこそその大切ないのちを根本から支える教え、ひいては常に自らのいのちと心が帰るべき世界・お浄土を持たない人々が多いのではないか、ということを指摘されています。

 宗教を持たない日暮らし、お浄土のない生活には、合掌の姿を見受けにくいものです。そのような大人社会からは、合掌をする子どもたちは生まれません。

 「合掌がない生き方は、他者への思いやりが育てられず、まして生かされていることへの気づきも遠のく。かろうじて人間中心主義であってはいけないという反省はあっても、人間は、人間中心にしか生きられないことへの気付きを踏まえての反省までは至りにくい」。さらにそのことは、自分だけしか存在しない生き方、自分にとって都合のよい生き方しかできない人が育たざるを得ないと、本の中で先生はおっしゃっています。

 報恩講の季節です。あなたの心にお浄土はありますか。仏さまはいらっしゃいますか。合掌の日暮らしを忘れてはいませんか。共々に自らの日暮らしを省みたいと思います。

12月1日~合掌のできない子どもたちに…2011年12月01日【157】

11月16日~手を合わす生き方には…。

 落ち葉が舞う季節となりました。

 さて現在、ブータンのワンチュク国王夫妻が訪日していますが、私は国王の国会での演説を大変興味深く聞きました。

 三十一歳の国王は、日本の国会議員を前にしてまず、「私は偉大なる叡智、経験及び功績を持つ皆様の前に、ひとりの若者として立っております」と述べ、そのことに対して「感謝します」と謝意を述べました。

 そして、三月の大震災の折には、ブータンの至る所で大勢の人々がお寺や僧院で、日本国民に慰めと支えを与えようと供養のために灯を捧げ、お勤めをしたことを述べ、「私は愛する人々をなくした家族の傷みと苦しみ、生活基盤を失った人、人生が完全に変わってしまった若者たち、そして大震災から復興しなければならない日本国民に対する私の深い同情を、直接お伝えできる日を待ち望んで参りました」と、被災地へのお見舞いの言葉を述べました。
 
 続いて「我々の物質的支援はつましいものですが、我々の友情、連帯、思いやりは心からの真実みのあるものです。我々ブータンに暮らす者は、常に日本国民を親愛なる兄弟、姉妹であると考えてまいりました」と、日本に対するブータン人の姿勢、気持ちを伝えました。

 その演説は、うわべだけの美辞麗句、社交辞令ではない、言葉一つ一つに確かな響きがあるように感じました。

 最後に国王は、ブータンを人口約七十万人の小さなヒマラヤの国と紹介しながら、ブータンの人々は、人々の間に深い調和を持ち、質素で謙虚な生活を続けており、若者が優れた才能、勇気や品位を持ち先祖の価値観によって導かれるブータンの社会を私は誇りに思う」と述べ、演説を終わりました。

 ブータンの社会を支える根底には仏教の教えがあります。それは国王夫妻が合掌で挨拶をする姿で分かります。そこには感謝があり、懺悔があり、精進があり、敬いと慎みがあり、願いがあります。

 手を合わす生き方、生活には、すばらしいお育てがあることを、あらためて教えられました。

11月16日~手を合わす生き方には…。2011年11月19日【156】

11月1日~親の務め通して親のみ慈悲を…。

 朝夕の寒暖の差が厳しい毎日です。

 さて、私ごとですが、大学三回生になる長女がカナダに語学留学をして、約一ヵ月になります。

 高校生の時に、学校からニュージーランドに短期留学に行く経験をし、それが縁となって、大学の英文科に進学しました。そして、高校生の頃から目標としてきた一年間の語学留学のため、九月中旬に出発しました。

カナダでは、ホームステイとしてカナダ人のご家庭にお世話になり、現在元気に過ごしていますが、長女を海外に、長期で初めて出す私たち夫婦は、やはり大変心配しました。

 出発前には、忘れ物はないか、お金はいくらほど持てば足りるのか、一人で行くのに無事に目的地にたどり着くのか、本当に言葉が通じるのか、ホームステイ祭のご家庭とはうまくやっていけるのかなどなど、親としてありとあらゆる心配をしました。

 現在はとても便利な時代で、インターネット回線を使って、テレビ電話ができ、顔を見ながら会話ができます。ですから、元気な顔を定期的に見ることができるのですが、それでも「風邪気味だ」と言えば、薬をちゃんと飲んでいるかとか、学校への行き帰りのモノレールは安全かとか、ご飯をバランス良く食べているかとか、そのような会話ばかりしています。

 近くで暮らしていた時はさほど心配していなかったのですが、遠くに行ってしまうと、親として、普段以上に心配をしてしまいます。そして、遠くに行ったことで、あらためて親としての務めを意識させられています。

 きっと、私たちの親様である阿弥陀如来もこのようなお気持ちで私たち一人ひとりをいつも案じてくださっているのではなかろうかと思うのです。阿弥陀如来も、遠くに離れそうになる子ほど心配してくださる仏様です。

 親の務めを通して、み親である阿弥陀如来のお慈悲を感じさせていただく、有り難い日々であります。

11月1日~親の務め通して親のみ慈悲を…。2011年11月12日【155】

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