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1月1日~明日ありと思う心に…。

 二〇一二年・平成二十四年の年明けです。今年も「覚照寺・心の電話」をよろしくお願い致します。

 例年でありますならば、「明けましておめでとう」と新年をお迎えするのですが、昨年の東日本大震災の被災者並びに被災地を思いますときに、到底そのような気持ちにはなることができない年明けであります。

 ただ、そう言っても一年のスタートです。新たなる気持ちと共に、遠くからでも復興のために少しでもできることに務めなければなりません。

 昨年の大震災では、私たちは多くのことを知らされ、忘れかけていた大切なことを思い起こされました。

 「明日ありと思う心のあだ桜 夜半に嵐の吹かぬものかは」

 親鸞聖人が御年九歳にて詠まれたと伝わるこの和歌もそうです。「この美しく咲き乱れる桜が明日もあると思うな。今夜、嵐が来て散ってしまうかもしれませんよ。あなたのいのちも同様に…」と無常観を詠われたものですが、私自身、日常の中でいつしか人ごとのように、また情緒的に紹介していたような気がします。

 しかし、大震災では、無常とは決して人ごとでなく、情緒的なものでもなく、私自身の厳しいいのちの現実であることを知らされました。

 いのちには五つの原則があります。

 私のいのちは、決して代わることはできません。

 私のいのちは、一つにて分け合うこともできません。

 私のいのちは、日々二度と繰り返すことはできません。

 私のいのちは、その終焉を避けることができません。

 私のいのちは、期間を予測することができません。

 この厳しい現実を真から受け止めるとき、今日一日の大切さが見えてきます。 今日一日なすべきことが見えてきます。

 今年も、一日一日を大切に、お念仏と共に暮らして参りましょう。

1月1日~明日ありと思う心に…。2011年12月31日【159】

12月16日~「絆」そして「縁」

 早いもので、今年もいよいよ年の瀬となりました。

 今年も様々なことがありました。三月十一日に発生した東日本大震災は、東北地方に未曾有の災害をもたらしました。またそれに伴う福島第一原発事故は、未だに多くの方々が先が見えぬ避難生活を強いられています。その他にも野田佳彦首相の就任や沖縄の普天間基地の問題などもありました。

 先般、その今年の世相を表す漢字が、京都の清水寺で示されましたが、やはり「絆」という文字でした。相次いだ災害であらためて確認された家族や仲間、地域とのつながりとその大切さがその理由でありましょう。

 私自身が一文字あげるなら、「縁」という字です。

 縁とは、この世の一切のものは、直接的あるいは間接的に、何らかのかたちで互いに関係し合い、つながり合って存在しているということです。

震災直後、被災地の東北地方では、もののない大変な被災状況の中にありながらも、暴動や大きな混乱もなく、皆我慢強く冷静に対応されたと聞きます。これは常日頃からその地域の方々が互いに支え合いながら生活をされてきた結果でありましょう。

 またその被災地には、日本全国から、そして世界各国から支援物資や激励の声が寄せられました。私たちは回りの多くの方々から支えられていることに気づかされました。

 逆に、原発の問題は、私たちがこれまで簡単、便利、スピードよかれの生活を一方的に推し進めてきた結果でもあり、深く反省すべきことであります。これは子や孫たちの時代まで負の遺産を残すことでありましょう。

 また、サッカー女子ワールドカップで優勝した「なでしこジャパン」の最後まであきらめない姿勢やチームワークの良さは、サッカーなどできない私にまで大きな勇気を与えてくれました。

 二〇一一年、この世の一切のものは、つながり支え合って存在していることを再確認させられた年でありました。

12月16日~「絆」そして「縁」2011年12月13日【158】

12月1日~合掌のできない子どもたちに…

 あと一ヵ月でお正月というのに、それらしからぬ陽気です。

 さて先般、仏教界で最古の新聞の『本願寺新報』の編集長を二十年間お務めになった三上章道先生から、『合掌ができない子どもたち』(白馬社)という著書をお送りいただきました。

 「合掌ができない子ども」とはいささかショッキングなタイトルですが、長年新聞に携わってこられた先生が、合掌ができない子どもたちとの出会いを契機として、そのような子どもたちが生まれた戦後の、日本の社会的な背景を考察されたものです。

 三上先生は、現代の日本は、政治や経済、教育や文化、情報や芸能など、すべての中核がおかれてる東京首都圏に、「死について触れない生き方」あるいは「無宗教の生き方」、浄土真宗的に言えば「お浄土がない生き方」をしている人多いのではないか。

つまり、私はいついかなる時に、どうなるか分からないいのちを抱えながら生きているのであり、だからこそその大切ないのちを根本から支える教え、ひいては常に自らのいのちと心が帰るべき世界・お浄土を持たない人々が多いのではないか、ということを指摘されています。

 宗教を持たない日暮らし、お浄土のない生活には、合掌の姿を見受けにくいものです。そのような大人社会からは、合掌をする子どもたちは生まれません。

 「合掌がない生き方は、他者への思いやりが育てられず、まして生かされていることへの気づきも遠のく。かろうじて人間中心主義であってはいけないという反省はあっても、人間は、人間中心にしか生きられないことへの気付きを踏まえての反省までは至りにくい」。さらにそのことは、自分だけしか存在しない生き方、自分にとって都合のよい生き方しかできない人が育たざるを得ないと、本の中で先生はおっしゃっています。

 報恩講の季節です。あなたの心にお浄土はありますか。仏さまはいらっしゃいますか。合掌の日暮らしを忘れてはいませんか。共々に自らの日暮らしを省みたいと思います。

12月1日~合掌のできない子どもたちに…2011年12月01日【157】

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