こころの電話

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4月16日~阿弥陀さまの大きな船に…。

 桜の花が強い春風に一気に散ってしまいました。

 さて今月三日、お仕事で、久しぶりにプロペラ機に乗って大阪へ向かいました。

 当日は大荒れの天気で、私の乗った小さなプロペラ機も大いに揺れました。

 隣に座るご婦人は肘置きをつかんで眉間にしわを寄せておられます。

 子ども連れのお母さんは、大泣きする子どもをしっかりと抱きしめて絶えておられます。ビジネスマンは、つかの間の休憩時間をゆっくり休むことができません。プロペラ機の中は、それぞれ不安と落ち着かない表情がありました。

 翌日の帰りも不安定なお天気でしたが、今度は大きなジェット機でした。

 すると、外は前日と変わらない大荒れのお天気なのですが、大きな飛行機の中は前日ほど大きく揺れることもなく、眠る人あり、新聞を読む人あり、音楽を聴く人あり、皆が安心して落ち着いた様子でした。

 私はその時、親鸞さまの、「阿弥陀如来の大きな船は、悩み苦しみ多きこの世界で生きる私たちを、必ず乗せてお浄土に渡して下さる」というお言葉を思い出しました。

 人の一生は悩み苦しみ多きものです。もし、阿弥陀如来の救いの船が小さければ、きっと搭乗者は大いに揺れてそこには安心がありません。逆に大きな船だと、搭乗者はすべてをおまかせして、ゆったりと安心した気持ちで過ごすことができます。親鸞さまは、阿弥陀様の救いのはたらきを、そのような大きな船にたとえておられるのです。

 大切なことは、それが亡くなってからのことでなく、生きている今の今、その大きな船に乗せていただいているということです。

 あなたはあなたのままでいい。そのままでいい。私はあなたにいつも寄り添い、見守り、あなたの一生を支えるから、安心して堂々と力強くこの人生を精いっぱい生きていきなさい。

 阿弥陀様の大きな船に乗ると、このような親さまのアナウンスが聞こえてくるのです。

4月16日~阿弥陀さまの大きな船に…。2012年04月22日【166】

4月1日~「人が育つ」とは…。

 春風に、満開の桜が揺れて、まぶしいくらいです。

 さて先月は、多くの学校で、お別れの場面が多く見られました。

 覚照寺が設立母体である幼稚園や保育園でも、たくさんの子どもたちが小学校に巣立っていきましたが、先月、このようなことがありました。

 ある日幼稚園へ、以前幼稚園を卒園して行った子どものご家族より電話がきました。

 「今から幼稚園に出向いていいですか」という問い合わせです。

 幼稚園の先生は、「どのようなご用件だろう」と思いながらも、「いいですよ、どうぞ」と応えたそうです。

 幼稚園には、卒園して小学生になった子どもとそのご家族、そしておばあちゃん、計五人が来られたそうです。

そして、「先生、この度、私たちはお仕事の都合で転勤することになりました。いよいよこの町ともお別れするときが来ましたが、その前に、この子が幼稚園に通っている間、お世話になり毎日お参りした幼稚園の仏さまにお礼のお参りに来ました。みんなでお参りをさせていただいてよろしいでしょうか」とおっしゃり、幼稚園の二階のホールにある阿弥陀如来さまに家族全員でお参りをされました。

 幼稚園の先生方も、とても暖かで和やかな空気に包まれたひとときだったそうです。

 「人が育つ、育てられる」とは、このようなことではないかと私は思いました。

 つまり「人が育つ」とは、「心が育つ」ということではないでしょうか。

 おばあちゃんのすすめによって、幼稚園を卒園した子どもが家族とともに仏さまに感謝のお参りをしました。きっと、このことは、その子どもの心の奥底に深く刻まれたことでしょう。そしてこの子の人生は、家族を始め多くの方々に支えられながら、生かされる喜びに溢れる心豊かな人生となることでしょう。

  幼稚園に勤める私たちも、有り難きお育てをいただきました。

4月1日~「人が育つ」とは…。2012年04月06日【165】

3月16日~布施の心で「有り難う」

 「暑さ寒さも彼岸まで」とはよく言ったもので、春彼岸を間近にようやく暖かさが感じられるようになりました。

 さて、今年もお彼岸のご法要が勤まりますが、お彼岸とはお浄土、つまり悟りの世界を指し、正式には「到彼岸」といい、仏さまのみ教えを聞き開き実践して悟りの世界に到ることを言います。

 私たちの浄土真宗では、この季候のよい時期にすすんでお寺に参り、お念仏のみ教えを聴聞し、仏さまの信心をいただくことを大切にします。

 仏教を開かれたお釈迦さまは、私たちが悟りの世界に到達する実践を六つに分けて勧められますが、その中の一つに布施行があります。

 布施とは、お金や品物を施すことを言います。またそれだけでなく、体を使ってお手伝いをしたり、周囲の人にあたたかな心で、笑顔で、優しい言葉で接することも相手に対する施しです。

 しかし、この布施の場合、施された相手がお礼を言う、言わないにかかわらず、施した方がお礼を言います。

 施した方がお礼を言うとはおかしな話ですが、なぜならば、布施は仏の悟りに近づくための行であり、自分の持ち物への執着や物欲から離れるための実践だからです。

 相手に貰ってもらえるからこそ、その行を勤められるわけですから、もらって下さって有り難うと、お礼を言うわけです。

 東日本大震災から一年が経った今も、私たちは身近なところで、義援金などの募金をさせていただく機会がありますが、これも仏教では布施の一つです。

 そこに、「被災者の皆さんを助けた」「自分はよいことをしたんだ」と少しでも思うならば、誠に申し訳ないことであります。

 ひとえに被災地の皆さんに心を寄せて、僅かですがどうぞ役立てて下さいと、お布施をさせていただく、そのような素直な姿勢が大切であろうと思います。

3月16日~布施の心で「有り難う」2012年03月19日【164】

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