こころの電話

最近の記事

4月1日〜一期一会で I Love You!

 うららかな花日和が続いていますがコロナ禍です。みんな集ってのお花見は禁物です。

 さて、新年度を迎え一人ひとりの新しいスタートです。また新たな出会いもあることでしょう。

 その出会いを大切にする意味で使われる言葉に「一期一会」があります。

 よく初めての人との出会いの場で、「この出会いは一期一会ですね」と使われがちですが、もっと深い意味がありそうです。

 一期一会の一期とは、自分が生まれてから死ぬまでの間のことです。一会とは一度限りという意味です。ですからこの言葉は、初めての人との出会いということだけでなく、自分が生まれてから死ぬまでの間で一度きりの出会いという意味で、同じ人であっても、何回であっても、その時の出会いは一度きりという意味です。

 この言葉の裏には、お経に示される「生死一如」という教えがあるように思います。

 生死一如の生死とは、自分が今生きているという事実と自分が死ぬという事実です。一如とは一体ということで、私が今生きているということと、私が死ぬということは、薄い薄い紙一枚の表と裏にしかなく、そよ風が吹いてその紙がハラリと裏返れば、私の死はただ今そこにあるという厳しい事実です。

 その私の命の厳しい事実を心底に踏まえてこそ、この度の一期の出会いは一度きり、すべての出会いにおいて、その時しかない限りなく大切な出会いであることが味わえるのでありましょう。

 先日、お寺の本堂で参拝されたご門徒方にこのお話をしましたら、後からある高齢の男性が私に近づいてきておっしゃいました。

 「住職さん、一期一会のお話、本当にその心がわかっていたら、夫婦げんかなどしませんねぇ」

 私はそれに応えていいました。「一期一会の心で、奥様に毎日、アイ・ラブ・ユーですよ」と…。

固定リンク | 2021年04月01日【377】

3月16日〜見つかるか見つからないか…

 うららかな春を謳歌できる季節となりました。

 さて、「そんかとくか人間のものさし うそかまことか仏様のものさし」とは、有名な詩人・相田みつおさんの言葉です。この言葉には、どのような意味があるのでしょうか。

 お寺のこども園で、昔このようなことがありました。

 年長児さんのA君は、ある日家族でドライブに出かけました。運転はお父さん、助手席にお母さん、後部席にA君と小学2年生のお姉さん。久しぶりのドライブで4人は車中で歌を歌ったり、しりとりをしたり、なぞなぞをしたりとても楽しいドライブでした。

 突然お母さんが、「お父さん赤信号、危ない、ブレーキ」と叫びました。お父さんが、楽しい話に夢中になりよそ見をして信号に気づかなかったのです。慌てて急ブレーキを踏みましたが間に合わず、車は赤信号の交差点の中へ突っ込みました。

 幸い横から車が来なかったため事故にはならずにすみました。その途端です。お父さんは通り過ぎた交差点の周囲を見回して、「よかったお母さん、警察がいなかった。危うく捕まるところだった」とお母さんに言いました。それに応えてお母さんは「ほんと、見つからなくてよかった。罰金取られたらばかみたいだしね」とお父さんに言いました。

 その時です。後部席に座っていたA君が体を前へ乗り出して言いました。「お父さん、お母さん、おまわりさんは見てないかもしれないけど、仏さまはいつも僕たちを見ているんだよ」…。

 その言葉を聞いて、ご両親は胸を突かれた思いだったそうです。「子どもを育てる親という存在でありながら、私たちは『見つかるか見つからないか、損をするか得をするか』という狭い心で物事を考えていた。息子は仏さまの広いまなざしの中で、私たちの姿を見つめていました。いや、参りました」と、後日お父様が園に来られてその出来事を報告されました。

 日常の生活の中にあっては、私たちはつい、物事を損か得かの物差しではかりがちですが、そのような一人ひとりの姿を、仏さまは慈しみのまことのまなざしで、いつも見守ってくださっていることを忘れてはなりませんね。

固定リンク | 2021年03月16日【376】

3月1日〜なんてすばらしい国なんだ

 新型コロナは大分収まってきましたが、気を緩めずに生活をしましょう。

 さて、先日ラジオで和歌山県の山浩敬さんが銀行のコンクールで受賞された作文をお聞きしました。とても素晴らしい内容でしたので主要な部分を紹介させていただきます。

 これは「あたたかな小さい手のリレー」という題で、山さんは、人生中途にて視覚に障害を持つことになり、仕事を休み復職のため一年間の訓練を受けて復帰されました。白杖をついてのバスの通勤で不安でいっぱいです。そのバスには和歌山大学附属小学校の児童が乗っていたそうです。

 「ある朝、『おはようございます』というかわいい声が聞こえました。「バスが来ました」また声が聞こえました。そして、私の腰のあたりに温かい小さな手があたりました。そして、バスの入り口前まで誘導してくれて、『階段です』と言い、背中を入り口方向に押し出してくれました。座席に座っている子に向かって、『席に座らせてあげて』と言ってくれました。感動です。

 私は遠慮しながら、『いいの?』と言うと、『座って』と返事が返ってきました。そして三年が過ぎ、その子も中学生になりました。でも妹が、その手引きを引き継いでくれて、私をバスに乗せてくれています。

 バスを降りる時も同じです。バスを降りると歩道を歩く私の腰を小さな温かい手で押してくれて、点字ブロックの上まで誘導してくれます。私は、大きな声で『ありがとう。車に気を付けてね』と言っていつも頭を下げます。

 そして、彼女も小学校を卒業しました。でも毎朝、背中を押して誘導する彼女を見ていた周りの子供たちにこの作業は引き継がれています。今では、誰かが背中を押す誘導をしてくれています。

 温かい小さな手の小さな親切が、次々と受け継がれています。

 あれから十五年以上、私も退職まであと一年と半年、失明をした時は絶望のどん底でしたが、温かい手の小さな親切のリレーで、退職まで何とか頑張れそうです。」

 仏教では施しのことを布施と言いますが、財力も物も持たずにだれもができる施しを無財の布施といいます。それが自然に受け継がれていることにに感動を覚えます。山さんは、作文の最後に「なんてすばらしい国なんだ」とおっしゃっています。

「小さな助け合いの物語賞」受賞作品より一部転載
https://www.shinyokumiai.or.jp/overview/about/writing11/000635.html

固定リンク | 2021年03月06日【375】

[1]    «    2  |  3  |  4  |  5  |  6  |  7  |  8    »    [129]

- 管理用 -

最近の記事

月別記事