こころの電話

最近の記事

11月1日~ 植物も、人も同じように…

 秋本番、日本名は「秋桜」、コスモスの花が咲き始めました。

 さて、この季節は、私にとって大変忙しい季節です。それは、趣味の園芸植物のオモトを生け変える時期で、数十鉢あるその作業には結構な時間と労力を要するからです。

 しかし昨年、私はこの「オモト」を育てるのに、大失敗をしてしまいました。
 オモトは、一年ごとに変わる葉っぱの模様を楽しむ観葉植物ですが、その新しい芽が出てくるのが五月くらいです。

 新しい芽が出ると、その芽に十分栄養が行くように、芽の横にある花のつぼみを切り取る作業をしなければなりません。

 昨年のこと、たくさんある鉢の中で、一番美しい模様が出そうな二つの鉢から、新たな芽が出たので、私は急いで花を切り取る作業をしたのですが、その途中、カミソリの刃先がかすかに芽に触れてしまい傷をつけてしました。すると、それ以降、その二つの鉢のオモトの芽は出ることはありませんでした。

 私は、誠に残念な思いをすると同時に、よく教育の現場で言われる「芽を摘む」とは、まさしくこういうことだと実感させられました。

 一年間栽培をしてきた私の心の中には、「早くきれいな葉の模様が見たい」という一方的な期待と欲がありました。仕事が忙しい合間を縫っての作業なので、急いで済ませなければという焦りもありました。作業を先にしなければならないほかの鉢があったのに、そちらには目を配ることなく、いまだ作業の時期に来ていない鉢から手をつけてしまいました。結果、二つの鉢の芽を見事に摘んでしまったのです。

 子育てや教育、また職場での人材育成も同様のことが言えるのではないでしょうか。子どもが育つ、人が育つには、時期があります。タイミングがあります。植物に栄養を与えるには時期があるように、子どもや人を指導・助言するのにも時期があります。また教える側、育てる側が一方的な期待や勝手な思いをもってしては、人は育ちませんし、せっかくの芽を摘んでしまうことになりかねません。

 植物も、人も同じこと、よくよく心したいものです。

11月1日~ 植物も、人も同じように…2007年10月31日【59】

10月15日~ カルトの見分け方は…

 朝夕の冷え込みが厳しく、秋冷という言葉が似合う季節となりました。

 さて、長野県の宗教法人内で、六十三歳の女性が殺されるという事件がありました。

 十五歳から八十歳の会員二十一名による集団暴行という報道で、この団体は普段から、あらゆる病気が治るとのふれこみで、高額な水を販売していたそうです。

 事の真偽はこれから明らかになるでしょうが、オウム真理教をはじめ、宗教団体にかかわる事件が起きると、「宗教とは怖いもの」、「宗教にかかわらない方がいい」という社会的な風潮が起きます。宗教にかかわる者として、誠に残念に思います。

 理性を失うほどに信じ込み、異常なまでに信じ込む宗教教団のことをカルト教団といいいますが、朝日新聞「こころ」編集長の菅原伸郎さんは、このカルトの見分け方について、その教団に入退会の自由があるかどうか、お金をどれほど取る教団か、その教団の中に言論の自由、つまり教えについて自由に論議でき、その内容を公開できているかどうか、この三つを挙げておられます。

 そして、宗教は「信じるもの」ではなくて、人間の本来の姿に「気づくもの」「了解するもの」といわれ、これから社会を担う子どもたちが通う学校で、人間の絶望とか、死ということについて、もっと教えるべきであると言われます。

 学校においては、普段、私の夢とか、希望とか、未来ということについてはよく教えますが、人間の絶望とか、死とかはあまり教えません。しかし、仏教の開祖であるお釈迦さまは、この世に生を受けたならば必ず老い、必ず病で苦しみ、必ず死なねばならないのが人間の現実であるということを諭されました。

 菅原さんは、夢や希望や未来も大切ですが、若いときから人間の死ということを、自分のこととして考えることができる人間を育てていかねばならないとおっしゃっています。

 まずは、身近なところから…、ご家庭で子どもも含めて話し合う機会を持つことも大切ではないでしょうか。

10月15日~ カルトの見分け方は…2007年10月16日【58】

10月1日~人間成就最後の姿は…

今月に入り、覚照寺では、いよいよ納骨堂の『第二偲恩堂』の建築に入ります。

 十月一日に、お寺の役員や工事関係者が集まって起工式を行い、それからスタートします。

 起工式では、阿弥陀如来を工事現場の中心に安置し、一人ひとりがお焼香をして、この度の工事に携わることを仏さまに感謝するとともに、安全に気をつけて、立派な納骨堂を建築することを誓います。地鎮祭とは全く意味合いが違います。

 きっと、ご門徒の方々に喜んでいただける立派な納骨堂ができることでしょう。 さて、元検事総長で、昭和六十三年に腸がんで亡くなられた伊藤栄樹さんという方が、がんとの闘病を記された、『人は死ねばゴミになる』という本があります。

 しかし、これについて、北海道のお寺の奥さまで、同じくがんとの闘病の末に亡くなられた鈴木章子さんが、こうおっしゃっておられます。

 「伊藤栄樹様、『人間死ねばゴミになる』、残された子に残された妻に、ゴミを拝めというのですか。あなたにとりまして、亡くなられたお父上お母上も、ゴミだったのですか。人間死ねば仏になる。この一点、人間成就の最後のピークでしたのに、自分がただの粗大ゴミとして逝ったのですね。未完成のままに」。

 そして、鈴木さんは、「よく新聞などで有名人が亡くなると、『がんに負けた』といいますが、死が負けであるなら、生きとし生けるものすべて敗者であろうかと思います」ともおっしゃっています。

 鈴木さんは、人間の現実と、仏さまの真実のみ教えを真正面から受け止めて、人間は死んでゴミなどになるのではない。仏さまになるのだと断言されています。

 私たちは毎日、言葉や行動、また心の動きによって生活をしています。生まれてから死ぬまで何億の行為をするでしょうか。その一つ一つの行為が、仏さまになるものとして値するかどうか、ふり返ってみましょう。その結果、伊藤さんは、粗大ゴミになられたのでしょうか。

 覚照寺の『第二偲恩堂』では、仏さまになる人生を歩まれた方々を偲ぶ、大切なお骨を安置するのです。

10月1日~人間成就最後の姿は…2007年10月01日【57】

[1]    «    128  |  129  |  130  |  131  |  132    »    [149]

- 管理用 -

最近の記事

月別記事