こころの電話

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6月1日~一緒に傘に入りませんか?

 梅雨に入り、蒸し暑さがいっそう増してきました。

 最近、子どもたちも少なくなって、この季節にあまり見かけなくなったのが、相合い傘です。

 私が幼いころは、学校の行き帰りしょっちゅうしていました。傘を持たずに家を出て、途中で雨が降ってきたら、友だちが「一緒に行こう」と入れてくれました。逆に傘を持たない友だちを見かけたら、「おい、入れよ」と言って、一緒に歩いたものです。

 しかし、結果的に一つの傘に二人入って歩くのですから、二人とも雨がかかり濡れてしまいます。二人とも濡れてはいるのですが、目的地に着いたとき声をかけたことに後悔の思いはなく、何となく幸せな気持ちになれる、それが相合い傘の思い出です。

 それは、そこに「布施…施しの心」があるからです。

 雨の中、傘を持たない人がいると、「どうぞ、入りませんか」と声をかけます。しかし、それは人を助けてあげていると思ったら大間違いです。相合い傘は結果的に二人とも濡れてしまうのですから…。

 では、なぜ、声をかけるのでしょうか。なぜ、自分の傘に他人を入れるのでしょうか。それは、自分一人だけが濡れずにいるのは心苦しいからです。見て見ぬふりをするのはつらいからです。相合い傘は、その苦しい心が楽になるために、相手の人に頼んで入ってもらうのです。私もあなたと一緒に濡れて歩かせてくださいとお願いしているのです。

 だから、入って頂いた方に、「有り難うございました」とお礼を言うのです。つまり、施した方が感謝するのが、仏教の「布施の心」です。

 また、「一緒に傘に入りませんか」と誘われて、断るのは間違いです。それを素直に受けるのも布施なのです。

 梅雨の季節、身近なところに傘を持たない人はいませんか。そんな人がいたら、ぜひ、「一緒に入りませんか」と声をかけてください。そして一緒に濡れてください。一人で濡れるより、二人で濡れた方がきっと幸せな気持ちになるはずです。

6月1日~一緒に傘に入りませんか?2008年06月02日【73】

5月15日~いま、生きている不思議

 五月も半ば、日本では心地よい風が吹いていますが、世界では大変な災害が起きています。

 ミャンマーでは、超大型のサイクロンが直撃し、四万三千人以上の人が亡くなり、約二万八千人がいまだ行方不明です。中国の四川大地震では、死者が五万人を越えると言われています。行方不明者や生き埋めになっている人がいまだ多くいるのに、世界からの救援をかたくなに拒む両国の姿勢に憤りを感じます。

 これらの災害発生をテレビで初めて知ったとき、私は今から十三年前、平成七年一月十七日、午前五時四十六分に起きた阪神・淡路大震災を思い出さずにはおれませんでした。

 私は、西本願寺鹿児島別院の職員として直ちにお見舞いと救援に参りましたが、観光地・あの美しい神戸の町が一瞬のうちに崩壊し、ご遺体が次々に掘り出され運ばれる姿を目の当たりにしました。

 ご遺族が、「あまりにもの突然のことで涙も出ません」と言われ、被災者のお葬儀に着の身着のままで参列された方が、「いま生きているのが不思議でなりません」と言われた言葉が思い起こされます。

 そして、周囲の方々から助けられた被災者が、「今さらながら、人間ってあたたかいな」とおっしゃった言葉も印象的でした。

 時は既に晩春、桜の季節はとうに終わりましたが、親鸞聖人が剃髪のとき詠われたという、「明日ありと 思う心のあだ桜 夜半に嵐の吹かぬものかは」の歌が頭をよぎります。人間のはかなきことは、いのちの後先が計れぬこと。深く心に刻みたいと思います。そして、被災の方々にお見舞いと、一刻も早い救援を心より念じます。

 なお、覚照寺においては、五月二十日・火曜日の午後六時三十分より本堂において、インドより古典楽器シタールの世界的奏者・キショール・ゴーシュさんを迎えて、コンサートを行います。ささやかですが被災者へのチャリティーも行う予定です。お誘い合わせの上、お越し下さい。

5月15日~いま、生きている不思議2008年05月17日【72】

5月1日~弦は弛みすぎても張りすぎても…

 ゴールデンウィークに入り、行楽地は人であふれています。

 さて、今月二十日、火曜日の午後六時三十分より、覚照寺の本堂で、インドの古典楽器・シタールの演奏会を行うことになりました。演奏者は、現在シタールの演奏家として、世界で第一人者のキショール・ゴーシュさんと、タブラ奏者のパルヴィズ・アヤンさんです。

 シタールは、北インド発祥の民族楽器で、十九弦からなる弦楽器です。この弦楽器について、お釈迦さまご在世当時のお話があります。

 大富豪の息子・シュローナは、お釈迦さまのお弟子になりました。彼は、子どものころからぜいたくに育ち、いつも台車に乗って、歩くことはありませんでした。しかし、お釈迦さまの弟子になると、自分の足で歩いて托鉢や修行をしなければなりません。

 シュローナは、足の裏から血を流しながら修行を続けました。そして、毎日毎日、悟りを得ようと猛烈に修行に励むのでした。しかし、彼はいっこうに悟りが得られません。それどころか、そんな気配さえないのです。

 シュローナは悟りが得られない自らに絶望します。「私は、この道には向いていない。能力もない。努力しても報われない」と思い、とうとうお釈迦さまのところへ行き、お釈迦さまの弟子から離れることを申し出ます。

 お釈迦さまは言われます。
 「シュローナよ、そなたは楽器の琵琶を知っているだろう」

 「琵琶は、弦が緩みすぎているといい音は出ない。逆に張りすぎていると高い音が出て聞きずらく、ついには切れてしまう。そなたは、心をいささか強く締めすぎているのだ、もう少しゆとりを持ち、緩やかにしてみなさい」

 その言葉を聞いてシュローナは、再び新たな気持ちで修行に励んだと言われます。
 弦は弛みすぎてもよくないし、張りすぎてもよくない。お釈迦さまは、人間の理想的な心の有り様を、弦楽器にたとえておっしゃったのです。

 五月二十日は、きっとすばらしい演奏会になることでしょう。どうぞ、お誘い合わせの上、お越し下さい。

5月1日~弦は弛みすぎても張りすぎても…2008年05月04日【71】

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