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12月16日~ 広い海ならこんなことはないのに…

 早いもので、二〇〇八年もあと一ヵ月で終わろうとしています。

 今月、十一日、十二日、十三日は、覚照寺の報恩講法要です。皆さまお誘い合わせの上、お参りください。

 さて、数年前、朝日新聞にタレントのさかなクンの記事が掲載されていました。さかなクンは東京海洋大学の客員准教授で、海洋学の専門家でもあります。

 その記事には魚の習性について書いてありました。メジナという魚は海の中で仲よく群れをなして泳いでいます。ところが、この魚を狭い水槽の中に一緒に入れたら、一匹を仲間はずれにして攻撃し始めたそうです。

 ケガをしてかわいそうで、その魚を別の水槽に入れました。すると残ったメジナは別の一匹をいじめはじめたそうです。助け出しても、また次のいじめられっ子が出てきます。逆にいじめっ子を別の水槽に出しても新たないじめっ子があらわれたそうです。同じ場所にすみ、同じエサを食べる、同じ種類同士。広い海の中ならこんなことはないのに、小さな世界に閉じこめると、なぜかいじめが始まります。

 さかなクンはこの魚の世界を、いじめの多い、人間の子どもたちの世界にたとえて、「大切な友だちができる時期、小さなカゴの中でだれかをいじめたり、悩んでいたりしても楽しい思い出は残りません。外には楽しいことがたくさんあるのにもったいないですよ。広い空の下、広い海へ出てみましょう」と問いかけています。

 思えば、親鸞聖人も、阿弥陀如来の智慧とお慈悲のあふれた世界を本願の海・本願海とおっしゃいました。これは阿弥陀如来の願いがかけられたものが住まう世界であります。

 この世界は、自分だけを良しとする自己中心な心を、広く豊かな心に変えるはたらきがあります。また、一人として分け隔てされることなく、一人ひとりが等しく大切にされる世界であります。さらに、差別や争いが起こらぬよう皆が共に努める世界でもあります。

 子どもから大人まで、私たちの住む世界が、そのような世界になりますよう、共々に努めたいと思います。

12月16日~ 広い海ならこんなことはないのに…2008年12月01日【85】

11月16日~ 「おかあさん」と、いっぱい呼んで…

 秋冷といわれますが、日中はまだ暖かな日が続いています。

 さて、先般、大阪から来られた布教使の先生が、ご法話の中で次のような詩を紹介くださいました。小学生六年生の中村良子さんが書いた詩で、その先生にお許しを得てご紹介致します。

 今日の宿題は つらかった 今まででいちばんつらい宿題だった

 一行書いては なみだがあふれた 一行書いては なみだが流れた

 「宿題は、お母さんの詩です。」先生は そう言ってから「良子さん。」と 私を  呼ばれた

 「つらい宿題だと思うけど 頑張って書い てきてね。お母さんの思い出と しっか り向き合ってみて。」

 「お母さん」と一行書いたら お母さんの笑った顔が浮かんだ

 「お母さん」と もう一つ書いたら ピンクのブラウスのお母さんが見えた

 「おかあさん」と言ってみたら 「りょうこちゃん」と お母さんの声がした

 「おかあさん」と もう一度言ってみたけど もう 何も 聞こえなかった

 がんばって がんばって 書いたけれど お母さんの詩はできなかった

 一行書いては なみだがあふれた 一行読んでは なみだが流れた

 今日の宿題は つらかった 今まででいちばんつらい宿題だった

 でも 「お母さん」と いっぱい書いて お母さんに会えた

 「お母さん。」と いっぱい呼んで お母さんと話せた

 宿題をしていた間 私にも お母さんがいた

 なんと、せつない詩でしょうか。胸が締め付けられるような思いがします。

 しかし、良子さんは、詩の最後の方で、「お母さん」といっぱい書いてお母さんに会えた。「お母さん」と いっぱい呼んで お母さんと話せたと言っています。

 「南無阿弥陀仏」。この詩は、良子さんとお母さんとの深いつながりとともに、お念仏をいただく私たちに、み親の名を呼ぶ尊さを教えてくれています。

11月16日~ 「おかあさん」と、いっぱい呼んで…2008年11月16日【84】

11月15日~知らず知らずのうちに…。

 先月末より、急に寒さが厳しくなりました。

 さて、十月中旬、京都の大谷本廟の「龍谷会」にお参りに行きました。

 大谷本廟は宗祖親鸞聖人の墓所であり、また全国のご門徒方のご遺骨が安置されているところです。「龍谷会」とは大谷本廟で勤める「報恩講」。親鸞聖人のご遺徳を偲びそのご恩に感謝する法要で、当日は晴天のなか、大変厳粛な法要が勤まりました。

 その夜に行われた会で、私は、西本願寺のご門主さまのごあいさつをお聞きするご縁に恵まれました。

 ご門主さまは、浄土真宗のみ教えをいただくことについて、車のハンドルとエンジンに喩えてお話しをされました。教えを聞くということは、正しい生き方を選ぶ、正しい筋道を学ぶということで、これを車のハンドルに喩えられました。
 
 次に、方向が定まったならば車は前進します。つまり教えを受け止めた生き方を示す。教えが体で感じられるような生き方をする。それをエンジンに喩えられました。

 大きな会場で、末席の私はすべてが聞き取れず、また、ご門主さまのお考えのごく一部しか聞き得てないのかもしれませんが、私はそのように拝聴し受け止めました。そして、そのことを自分自身の生き方に照らしたときに、簡単そうでなかなか難しいことだと思いました。

 正しい教えを確かに受け止めた、これは間違いのない方向だと思っていても、時間が経てば、私の頭は、知らず知らずのうちに自分の得手勝手の方向へ向いています。

 正しい教えを真摯に受けて生活をしようとするのですが、これも知らず知らずのうちに自分の得手勝手な生き方をしています。問題は、そのことになかなか気付かないということです。誤った方向に進んでいることに自分では気づかない。それが本当の迷いであり、愚かさであります。

 私の人生に、ピカピカの新車も高価な外車もいりません。真実の方向へ正しく進む車がほしいと思います。それには、仏さまのお話を重ねて重ねて聞くしかないと、先輩念仏者は勧めておられます。

11月15日~知らず知らずのうちに…。2008年11月03日【83】

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