こころの電話

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1月15日~その獣の皮と杖を…。

 昨年より、桜島の降灰に見舞われている鹿児島、年始め久しぶりに積雪まで経験しました。

 さて、今月十六日は、浄土真宗の開祖・親鸞聖人の七四九回忌のご命日で、いよいよ来年は京都のご本山で、『七五〇回大恩忌法要』が勤まります。

 この親鸞聖人のお姿が表された絵に、「安城の御影」というものがあり、聖人が八十三歳の時、絵師の朝円が書かれたものといわれます。

 黒染めの衣と黒い袈裟を身につけ、畳の上にお座りになる姿ですが、よく見るとお体と畳の間には獣の皮が敷いてあり、足元には杖がななめに置いてあります。

歴史上、世の中にはたくさんの高僧や聖者がおられ、その多くが美しい衣を身にまとい、立派なイスや畳に凛として座っておられるのに、聖人の絵はあまりにも粗末で質素すぎる思いがします。

 これについて、以前、僧侶の先輩からある逸話をお聞きしたことがあります。

 ご高齢になった親鸞聖人に対してお弟子方が、お元気な内にその姿を絵師に書いてもらおうということになり、申し出をされました。

 聖人はその申し出を了承され、お弟子方はきれいな畳を用意して、我が師匠をその上へと案内しました。

 すると聖人は、畳の上にそばにあった獣の皮をあえて敷き、自分の杖を足元に置いて、それを絵師に書かせたというのです。

 これは、親鸞聖人が自分自身のことを、決して私はあなた方の師匠などではない。まして高僧と言われるような者でもない。皆と共に阿弥陀如来のみ教えを聞き、信心をいただき、共に浄土の道を歩ませて頂く年老いた一人の人間でしかないということを、そのお姿をもって示されたものだというのです。

 一人の人間として老病死のいのちの現実に悩み、煩悩をかかえた人生に苦しみみぬかれた聖人が説かれた阿弥陀の教えだからこそ、私はその後を慕うことができるのです。

 聖人のご命日に、共にみ教えを聞き、共に救われる道を問い訪ねて行かれたその姿勢に学びたいと思います。

1月15日~その獣の皮と杖を…。2010年01月16日【112】

2010年1月1日~何がおきても不思議ではない

 あけましておめでとうございます。二〇一〇年・平成二十二年の年明けです。 覚照寺では一月一日元旦の朝、年が明けて最初の法要「修正会」をたくさんのご門徒方とともに勤めました。 今年も「心の電話」をよろしくお願い致します。

さて、先日読んだ本の中に、「戦後家庭の中で、大きくなったものはテレビである。逆に小さくなったもの、また無くなってしまったものがお仏壇である」とありました。

 テレビは、正しいこと誤ったことを含めありとあらゆる情報を提供してくれますが、人はそれを一番大切にして、逆にお仏さまを敬い大切にする生活が薄れつつあるということでしょうか。

 一昔前までは、家の中でお仏壇を中心にした生活が、日本のどこにでもありました。他人の家を訪問したときはまずお仏壇にお参りしてから、会話をはじめました。毎日ご飯をいただく前には必ずお仏壇にお参りしてからいただきました。人様から頂き物をしたときは、御仏壇にお供えしてから封を開けました。家族間の大事な話をするときは仏間で必ず行いました。

 これは、すべて何事も仏さまを中心にした生活を送るということで、私たち一人ひとりのいのちが、ありとあらゆるいのちとつながり、生かされているということに気づかされ、それを確かに受けとめていくことが形に表れたものです。

 もっと簡単に言うと、お仏壇の前に座り手を合わすということは、「人間は自分一人で生きているのではない」ということを体と心で受けとめていくということです。そして、さらには人として生まれたものは、決して周囲の人たちの信頼を裏切ってはならないという、人間としての責任が生まれてくるのです。

 「世の中からお仏壇がなくなると、何がおきても不思議ではない」と先人は諭されます。今年一年また、お仏壇を中心にした生活を送りましょう。

2010年1月1日~何がおきても不思議ではない2009年12月30日【111】

12月15日~求めすぎずにおだやかに…。

 十二月も半ば、いよいよ寒さも厳しくなってきました。

 さて、今月十四日、十月二十八日にお浄土に参りました坊守の父の満中陰のご法事が、坊守の実家である大阪のお寺で勤まりました。

 たくさんの親せきが参集し、いっしょにお勤めをして今は亡き住職・父の遺徳を偲びましたが、ご法事の導師をお勤めくださったお坊さんが、私たち遺族に対して、特に残された三人の娘に対してご法話をくださいました。

 お坊さんはご法話の中で、、三姉妹の年代に合わせて、ミュージシャンの吉田拓郎さんが今年五月に作った「フキの唄」という歌を紹介してくださいました。

 「日々の暮らしの中で、ふっと息を吸い込むと、人間は果てしない欲張りで、足りないものがある、そこに我慢できなくて、何もかも手に入れたいと思っている」

 「僕が子どもだった頃、日本は貧しくひ弱で、お金もなく肩寄せ合って生きていた、ものが足りないのは、みんな一緒だし普通だし、何よりも平和が大切でありました」

 お坊さんは、この詩を紹介しながら、自分自身の生活を振り返ってみましょうとおっしゃり、そして、今の日本が忘れ去ったものを顧みることが大切ですねと話されました。

 「人が生きる道もまた、おいしいことばかりじゃない、足りなくて満たされぬ日が多くある、何かが足りないときも、そのことを受けとめたい、何もかも求めすぎずに、おだやかに」

 最後の詩です。今年一年度のような自分自身だったでしょうか。欲にかられた姿はなかったでしょうか。自己中心の言動行動はなかったでしょうか。お仏壇の前で手を合わせわが身を省みるそこに、本当のおだやかさが恵まれます。

 今年一年テレホン法話をお聞きくださり有り難うございました。皆さま、よきお年をお迎えください。来年もよろしくお願い申し上げます。

12月15日~求めすぎずにおだやかに…。2009年12月17日【110】

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