こころの電話

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4月15日~盗んだ一万円を…。

 大きなランドセルを背負った新一年生の子どもたちが眩しい季節です。 

 さて先日、テレビで一つの明るいニュースを目にしました。

 宇都宮市で、近くの神社のお賽銭箱から一万円を盗んだ小学生が、やがて社会人になり、謝罪の手紙と三万円を再びその賽銭箱に返したというニュースです。

 その手紙には、「約十年前に賽銭箱から一万円盗んで申し訳ありません」とあり、続いて、小学生の頃、「罪の意識もなくやってしまった」、「後悔と罪悪感でいっぱい」と綴ってあります。

 そして、「社会人になってからお金を稼ぐ大変さを実感したときに、お賽銭を盗んだことを思い出しました」とあり、さらに、「一万円を入れた方はどんな願いを込めて入れたのだろうと思うのです」、「盗んだ一万円を含む十年間の歳月が流れてしまったことを踏まえて、合計三万円を納めさせていただきます」と書かれていたそうです。

 その神社を管理している自治会の方々がその内容に感銘を受け、ニュースとなったそうですが、私はこのお話を耳にして、お釈迦さまのお言葉を思い出しました。

 それは、「生まれによって賤しい人となるのではない。生まれによって高貴な人となるのでもない。行為によって賤しい人ともなり、行為によって高貴な人ともなる」という言葉です。

 小学生の時、一万円を盗んだその男性の行為は許されるものではありませんし、たとえ三倍にして返しても行ったことは消せません。しかし、幼い頃欲にかられて、ついやってしまった自らの行為を忘れることなく、有耶無耶にすることなく悔い、反省して、謝罪文とともに返金した行為は、また、人のこころを潤すような尊いことです。きっとその男性がそのような思いや行為に至るまでには、様々な人的、社会的な、多くのご縁が働いていることでもありましょう。

 「人は、行為によって賤しい人ともなり、行為によって高貴な人ともなる」

 心にとどめて、日暮らしをしたいものです。

4月15日~盗んだ一万円を…。2010年04月16日【118】

4月15日~非戦平和の誓いを今…。

 春風に桜の葉が境内を舞っています。

 さて、先月の二十八日、本願寺沖縄別院の全戦没者追悼法要にお参りをするご縁をいただき、そのご法要の記念講演として、戦争体験者の仲程シゲさんのお話を聴講いたしました。

 仲程さんが沖縄戦を体験したのは六十二年前、十六歳で中学一年生の時。米軍が沖縄に上陸し攻めてくる中で、家族親戚十一人で必死で逃げたそうです。

 米軍に捕まると男性は虐殺され、女性は強姦されるとの噂が飛び交う中、隠れ潜んだ濠の中で、親せきの叔父さんが、日本人としてそのような辱めを受けるのならいっそ皆で自決しようと、手榴弾で自爆をしようとされたそうです。

 しかし、その寸前にシゲさんのお母さんが、「なぜ、戦争でこの五人の子どもたちを殺さにゃいかんのか」と必死に訴えました。それで叔父さんは集団自決を思いとどまったそうです。

 残念なことに、その叔父さんもまたおばさんも、逃げる途中で次から次に亡くなって行かれました。

 ある日、逃げ惑う日本の民間人と日本兵数名が集まったとき、若い青年がふんどし一枚の姿で、「これ以上もう逃げられない。この姿になって投降すれば米軍は何も危害を加えたりしない。皆、この姿になってもう投降しよう」と勧めたそうです。

 すると途端に、近くにいた日本兵がその青年の首を日本刀ではねたそうです。シゲさんの目には、今でもそのすさまじい光景が焼き付いているそうです。

 様々な体験をお話しされる中で、シゲさんは、「戦争は自然に起きたりなんかしません。起こす人がいるから起きるんです」とおっしゃいました。そして、「あの時、母が自決を止めなかったら、私たちは皆死んでいたでしょう。母のお陰で、私は今、このようにして皆さんに平和の尊さを訴えることができるのです」ともおっしゃいました。

 「非戦平和」の尊さをあらためて教えていただいた貴重な日となりました。

4月15日~非戦平和の誓いを今…。2010年03月31日【117】

3月15日~帰る世界がありますか?

 「暑さ寒さも彼岸まで」のとおり、春のお彼岸が近づきようやく春らしくなって参りました。

 さて、お彼岸は春と秋の二回訪れますが、特に中日の春分の日と秋分の日は、太陽が真東から昇り真西に沈みます。仏教の修行法の一つに、日想観というものがあり、「日のいにし方」つまり太陽の沈んでいく方向に、私たちが命を終えて帰るべきお浄土の世界を思う修行です。

 この仏教の慣習が一般の方々にも広まって、私たち日本人はお彼岸という行事をとても大切にしてきました。

 このお彼岸の行事の意義を一言で申しますと、「あなたは自らの命の帰る世界がありますか?」ということです。そして、「その世界はどういう世界かご存じですか?」ということです。

 例えば、子どもたちが、朝学校に元気に家を出て行きます。学校で一生懸命勉強やスポーツに励み、また友達と遊んだり時にはケンカもします。なぜ、子どもたちが元気に安心して学校で過ごせるかというと、必ず帰るところがあるからです。必ず「おかえり」と暖かく迎えてくれる人がいて、安心して休む家があるからです。

 大人だって同じです。私たちが、安心して外で仕事をしたり、時には楽しい旅行をしたりできるのも、必ず帰る家があるからです。安心できる場所があるからです。

 つまり、お浄土とはそのような世界です。私たちが命終わるときに帰る世界、安心して参ることのできる世界、私たちをあたたかく迎えてくださる仏さまがいらっしゃる世界です。

 仏教では、私たちの命を「無常」という言葉で表します。いついかなる時にどうなるかはかれない命ということです。その無常の命を持った私が、いつでも安心して帰る世界を持つのと持たないのでは、人生に大きな違いが出てきます。確かな安住の家を持たない人生は、心配事が多く、安定性のない人生になりがちです。

 「あなたには、命の帰る世界がありますか?」。お彼岸にたずねるべき人生の大切な問題です。

3月15日~帰る世界がありますか?2010年03月16日【116】

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