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3月1日~幸せ感じるモノサシは…。

 三月は啓蟄、冬眠をしていた虫たちがいよいよ動き出します。

 さて、二月中旬、ブータン王国のケサン・チョゼン・ワンチュク王女が来日し、京都・西本願寺の宗門校である龍谷大学で講演をされたことが、新聞で報じられていました。

 ご存じの方も多いと思いますが、日本においては、国の豊かさを経済的な指標ではかるGNP・国民総生産で表しますが、ブータン王国においては、それをGNH・国民幸福度で表しています。

 これは、国の宗教である仏教の精神を根底にして、国民総生産のような物質的、金銭的な豊かさではなく、精神的、文化的な心の豊かさを目指そうとするものです。

 この心の豊かさという視点で今の日本をはかると、八歳から三十四歳の、子どもから若者を対象に行ったある調査では、世界十四カ国中、日本は飛び抜けて最下位だそうです。また別の調査では、百七十八カ国中九十位だったそうです。

 先月二十五日の南日本新聞には、昨年、日本青少年研究所が高校生を対象に行った調査で、「自分は価値のある人間だ」と思っている高校生はわずか七,五%、「自分を優秀ではない」と思っている高校生が八十三,二%と、日本の高校生は自分への肯定感が他の国の子どもよりも低いという結果が出ていました。

 人間の豊かさを経済や物質、また金銭的面からだけではかると、幸せを感じることのできない人はたくさん出てきます。また自由競争のモノサシだけで人を評価すると、自分に自信の持てない人や悩み苦しみを抱えざるを得ない人がたくさん生まれます。

 人が幸せを感じることのできる指標は決して経済的なものだけではありません。「思いやり」や「お陰さまの感謝の心」、「勇気」や「誠実な心」、そして「智恵や慈悲の心」。ブータンの国民は、人間がそれらを失ってはならないことを、私たちに教えてくれています。

3月1日~幸せ感じるモノサシは…。2011年02月27日【139】

2月16日~差別の心、知らず知らずに…

 雨水の季節、あたたかさに雪が溶けて雨になる時期です。

 さて、仏法をお聴聞することによって得られる功徳に、自らの差別心に気づかされるということがあります。

 差別の心とは、誤った価値観によって他のものに差をつけて取り扱ったり、正しい知識を持たないが故に、理由なく自分より劣ったものとして見たり、接したりすることをいいます。

 数年前のことです。鹿児島市内の山の上にある高級ホテルで知人の結婚式があり、私はタクシーでそのホテルに向かいました。

 ちょうどその日は大安ということもあり、結婚式の多い日でした。

 タクシーの運転手さんが私に言いました。「今日は結婚式が多いです。先ほども結婚式のお客さんでした。でもさっきは島の人で、下のホテルでしたけど…」

 何気ない会話でしたが、よく聞くと、「さっきは島の人で下のホテル」ということは、「今は山の上のホテルを目指しているので島の人ではない」ということになります。そして、鹿児島県にはたくさんの離島がありますので、多分、その方々を指して「島の人」と言い、その島の人は、上の高級ホテルではなく、下のホテルを利用するのが当然だという意味で話されたようです。

 私は、その言葉に強い憤りを感じ、「運転手さん、そんなことを言っちゃいけないですよ。島の人であろうがなかろうが、どこの人であろうが、上も下もないですよ」と、言いました。

 その後、ホテルに着くまで、タクシーの中は重苦しい雰囲気が続きました。

 しかし、この運転手さんだけではありません。この私も含めて、人間の心の中には、自分とは違うと誤った思いを持ったときに、差別の心が知らず知らずのうちにわいてきます。

 仏さまは、「そのようなあなたでいいのですか」と、いつも智恵のまなざしで厳しく見つめ、問いかけてくださいます。

2月16日~差別の心、知らず知らずに…2011年02月17日【138】

2月1日~現世祈祷などにたよらない

 五十二年ぶりに新燃岳が大爆発をしました。全国の知人より、「あなたの所は大丈夫ですか」、「気をつけてくださいね」と、電話やメールを頂きます。誠に有り難く思います。

 さて、節分を来月に控え、町のお店などでは恵方巻きの宣伝を見かけるようになりました。

 恵方巻きとは、節分の夜に、その年の干支に基づいた方角に向かって、海苔巻きを一本丸ごと切らずに食べると縁起がよいとされる風習ですが、のどに詰めたら元も子もありませんので、気をつけていただきたいものです。

 この恵方巻きのように、日本には様々な風習や、迷信、俗信、また祈祷や占いがありますが、お念仏のみ教えを頂く者は、これら一切の現世祈祷などに頼らないというのが、浄土真宗の教えの大きな特徴です。

 私たちが人生を送る上では、様々な願いがあります。お金を儲けて豊かになりたい。病気をせずに長生きしたい。交通安全や家内安全、また入試シーズンになると、どうか合格しますようにという願いも出てきます。

 これらは私たち庶民の純粋で切なる願いではあるのですが、果たしてこの願いを神さまや仏さまに振り向けるのはいかがなものでしょうか。

 お金を儲けるというのは政治や経済の問題です。病気は医療や日頃の節制・検診の問題です。交通事故は何より日頃の安全運転、そして車の運転は事故の危険を承知の上でしなければなりません。また私の合格祈願は、逆に他人の不合格を願うことにつながります。

 おおよそこれらは、自分だけの表面上の幸せ、自己中心的な欲望を神さまや仏さまに願っていることに他なりません。

 浄土真宗は、この人間が持つ心の弱さに支配されない、真に心豊かな人生の有り様を目指します。その人生は、阿弥陀如来から私にかけられた真実の願いを、重ねて重ねて聴聞することによって開かれるのです。

2月1日~現世祈祷などにたよらない2011年01月28日【137】

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