浄土真宗本願寺派 放光山
覚照寺の歴史

覚照寺の開基・平島義山は、嘉永2年6月26日、岐阜県各務郡・覚王寺に生まれ、9歳の時から宗学を学び山口の大洲鉄然和上に師事、16歳の時本願寺教校に学び本願寺教師補となる。

初代住職 平島義山 許可証
初代住職 平島義山 許可証

薩摩念仏禁制の明治9年3月、義山28歳の時、京都本願寺において布教中、薩摩川内中郷の嘉永講講頭が聴聞し、それが縁となって懇望され、本山の内命を受け、死を決意して川内中郷・山口某氏宅に落ち着く。そして薩摩藩による念仏禁制の厳しい中、山口氏の案内で真夜中に山中洞窟にて伝道布教を行う。

明治9年9月5日、念仏禁制は解けたが、弾圧と危険は去らず、翌10年2月西南の役が起こるやことに真宗僧侶に危険が迫り、たまたま私学校に在籍していた山口氏の子息が身の危険を知らせるため夜通しかけて川内まで帰り、その勧めによって一応帰京する。

西南の役もおさまり、明治11年7月7日、大谷光尊門主(本願寺第21代明如上人)より正式にに鹿児島開教を命ぜられ、再度来鹿し薩摩各地を伝道布教する。

明治13年2月、信者の熱望により岩川に居を定め説教所を創設し、同17年5月2日、「放光山 覚照寺」と公称し開基住職となる。

平島義山の懐中本尊
平島義山の懐中本尊(高さ1.5cm)

開教にあたり、農家の零細困難の一助として明治18年頃より岐阜県より養蚕を取り寄せ指導し、岩川において初めて養蚕を広めた。また、岐阜より当時優秀な餅米の種子を取り寄せて農家に広め、昭和30年頃まで「美濃モチ」或いは「平島モチ」の名で栽培されていた。

明治30年、大谷光瑞門主(本願寺第22代鏡如上人)の御巡教を受ける。

昭和4年10月開基住職義山、第2代住職義雄に譲り、同7年1月13日、84歳の一期をもって往生する。

昭和4年から6年にかけて現在地の本堂を新築、また書院を移転し、その後庫裡を建築する。現本堂は、第二次世界大戦中、飛行場勤労奉仕者隊の宿舎に使用され、飛行場完成後は陸軍の兵舎となり、終戦当時は小学校の分教場になっていた。また、終戦一週間前には、米軍の機銃掃射200発近くを受け、正面屋根は一見蜂の巣のように見えたと言われ、現在もその傷跡は御堂内の至る所に残存する。


本堂内に今も残る米国軍による機銃掃射の痕


覚照寺では年間を通して平和学習を行っています

昭和22年9月、終戦混迷の時、幼児福祉のため覚照寺保育園を開設。同23年5月1日、厚生省の認可を得る。

昭和34年11月、大谷光照門主(本願寺第23代勝如上人)の御巡教を受ける。

昭和40年3月、「親鸞聖人700回大遠忌及び覚照寺創立85周年大法要」厳修。

昭和41年3月7日、第2代住職義雄、74歳の一期をもって往生する。その後典雄が第3代住職を継承する。

内陣修復直後
内陣修復直後

昭和46年3月、町民の要望により学校法人愛光学園・大隅中央幼稚園を開設。

昭和53年11月、鹿児島で初めて大谷光真門主(本願寺第24代即如門主)をお迎えし、「親鸞聖人御誕生800年・立教開宗750年・覚照寺創立100年慶讃法要」を厳修する。

昭和59年、宗教法人覚照保育園から福祉法人 覚照保育園に移行し、園舎老朽化のため改築、昭和60年3月に完成する。

平成4年4月から10月にかけて、本堂お内陣を極彩色に大修復を行う。

平成7年4月、大隅町都市計画並びに園舎老朽化のため、大隅中央幼稚園を鉄筋コンクリート2階建の新園舎に改築する。

平成16(2004)年10月から平成17年7月にかけて、「本堂平成大修復事業」を行い、本堂屋根、内陣、空調、身障者参拝設備を整える。また、平成17年7月1日、平成の大合併により、曽於郡より曽於市(大隅・末吉・財部3町合併)となる。

平成19年4月29日〜29日の両日にわたり、『覚照寺本堂平成大修復落慶 覚照寺創立130周年 第4世住職継職慶讃法要』を厳修する。

平成27年12月11日(金)〜13日(日)の3日間、『親鸞聖人750回大遠忌 開基・第二世住職讃仰並びに総門徒追悼法要』を勤め、その記念事業として境内に「親鸞聖人遠望の御姿」の銅像を建立、内陣親鸞聖人御前の前卓並びに両余間のお荘厳、開基住職所有の念仏禁制時代の懐中本尊、廃仏毀釈にて焼けた阿弥陀如来等を安置する厨子を設置する。

平成28年4月1日、覺照寺が設立母体となった社会福祉法人覚照福祉会 覚照保育園が幼保連携型認定こども園に移行し、園名を「覚照こども園」に変更。同年6月1日、学校法人愛光学園 大隅中央幼稚園が幼保連携型認定こども園に移行する。

 

「大杉之神の碑」の由来について

「覚照寺の現在の書院は一本の大杉でできた」「その大杉は町内のご神木だったらしい」「この木は、切られて川を流されて運ばれてきそうだ」。これらは第3代住職が若い頃、門徒宅へお参りに行ったとき耳にした現書院建立にまつわるエピソードですが、実際第3代住職も、第2代住職が急逝したためその謂れを直接聞くこともなく、その大木がどこにあって、どんな経緯で書院ができたのか知り得ませんでした。


大杉之碑

この度、元覚照寺総代会長の渡邉義則さんが、昔古老方から聞かれたそのエピソードをまとめてくださいましたので紹介します。

覚照寺にとっては、貴重な歴史的記録になります。

梵字(キリーク)
梵字(キリーク)

大隅町岩川土成集落の国道269号線沿いの雑木林の中に、「大杉之神の碑」が建っています。この石碑をよく見ると、碑の正面上部に梵字(キリーク:右図参照)、その下に「大杷携蝓廚箸△蝓右側正面には「土成・中・新城」、左側面には「明治30年旧正月12日建立」と刻まれてあり、それ以来毎年この日にお祭りをしていました。昭和40年頃より12月21日「年の神祭」と一緒にするようになりました。梵字のは阿弥陀如来を表します。この碑について、古老からお聞きした話を記憶に残っていることを書き残すことにします。

まず大杉はどこにあったかということですが、集落内の旧道から渡集落方面に通ずる旧道(通称御官道路)の三又路の一角に立っていたと言います。

杉の幹回りは、大人7人でだ抱き回すほどであったと言います。大人一人の手から手が約1メートル40センチとしてその7倍は9メートル80センチ、従って直径は3メートルほどであったのではと想像されます。


「大杉はこの辺りにあったのですよ」と説明する渡邉さん

下部は空洞(ウトロ)になっていて、3メートルほどの所から五本に枝分かれして一本の幹回りは2メートル以上あったといわれています。大雨の時雨宿りになったり、子どもの遊び場でもあったといいます。

高さは西日になると影が川向こうの大沢津集落まで届いていたと言いますので、かなりの高さがあったようで、今日まであれば天然記念物になっていたと思われます。


覚照寺の書院

集落の人たちがなぜこの木を神木としていたのか、その言い伝えとして、昔この地で激しい戦いがあり、ここで侍の大将が戦死をしてこれを葬り、その塚に植えられた木であったと伝えられ、自然に神木といわれるようになったと思われます。

五十町村、中之内村、岩崎村の三ヵ村を岩川といいますが、その中で中之内村は土成、田尻、梶ヶ野の三つの小村からなっており、一番大きな村であったと思われます。

集落の後の山は山城(土成城)で、その中に町内一大きな塚が残っています。ここの小字は城跡も含めて土成屋敷となっています。その山城に登るところに土成公民館があります。

公民館は社殿造りとなっていて、御祭神は、大年の神・御年の神・若年の神・天神・仙神・観音神・地蔵神・大杉之神・氏神、以上9神を本勧請として、毎年12月21日に神祭りを行っています。

なぜ、大杉が切られることになったのか、その経緯について書いておきたいと思います。

私が話をお聞きした古老方
(昭和27年から30年頃に聞いた話です)
渡邉 幸右エ門 明治20年生まれ
渡邉 常吉 明治23年生まれ
川崎 広 明治33年生まれ
他数名

鹿児島では、明治9年9月5日に長い間の念仏禁制が解かれ、岩川の地に覚照寺初代住職・平島義山師が布教に来られて、明治11年に説教所が建てられ、大変布教に努力されて、明治17年5月2日に京都・西本願寺より寺号公称を受け、門徒も次第に増えてきました。

その後、寺にも書院等も必要となったため、これを建立することになり、土成地域の人々が話し合って大杉を寄進することになったということです。時は明治30年頃、切った大杉は近くの後川(菱田川)で川流しして、後川と前川の合流したところ(俗称金北)で引き上げられ製材がされ、この木一本で書院が出来上がったといわれています。その書院はそのまま現在地に移転しました。

そこで地域の人々は、この木を神木としていたことから、近くの北角(俗称北原)後に碑を建て、大杉之神として祭ってきたということです。

元覚照寺総代会長 渡邉 義則

 

開基住職所有の「懐中本尊」と「開教辞令」

竹筒に納められた身の丈1.5cmほどの阿弥陀如来
竹筒に納められた
身の丈1.5cmほどの阿弥陀如来

薩摩(鹿児島)の地に、「信教自由の令」が発布されたのは明治9年9月5日で、この日を鹿児島における浄土真宗の禁制が正式に解かれた日である「開教記念日」として、本願寺鹿児島別院では毎年法要をお勤めしています。

その「信教自由の令」発布より約半年前の明治9年3月に、後に覚照寺の開基住職となる平島義山は本願寺の内命を受け、鹿児島の地に入りました。

その後、薩摩藩による念仏禁制のまだ厳しい中、川内中郷・山口某氏宅にかくまわれながら、山口氏の案内で真夜中に山中洞窟にて伝道布教を行っています。

覚照寺の残る「懐中本尊」は、その伝道布教の折、開基住職が懐に入れて持ち歩いたものです。

以前は、「かくれ念仏展」をはじめとする鹿児島の歴史展覧会等で要請があった場合には出展していましたが、痛みが増してきたため、また念仏禁制の厳しさを今に残す貴重なご本尊のため、現在は門外には出しておらず、団体参拝等でご来訪いただいた方々にだけ観ていただいています。

 

明治9年9月5日、正式に念仏禁制は解けましたが、弾圧と危険は去らず、翌10年2月西南の役が起こるやことに、時の政府とつながりのあると思われていた真宗僧侶に危険が迫り、たまたま私学校に在籍していた山口氏の子息(川内中郷で平島義山をかくまってくださった方の子息)が、身の危険を知らせるため夜通しかけて川内まで帰り、その勧めによって平島義山は一応帰京しました。

やがて西南の役もおさまり、平島義山は明治11年7月7日、大谷光尊門主(本願寺第21代明如上人)より正式にに鹿児島開教を命ぜられ、再度来鹿し薩摩各地を伝道布教します。覚照寺に残る「開教辞令」はその時のもので、現在、鹿児島県内でこの「開教辞令」が残る寺院はほとんど無いであろうと言われます。

本願寺第21代明如上人より交付された鹿児島への「開教辞令」
本願寺第21代明如上人より交付された鹿児島への「開教辞令」

毎年9月5日に修行される「さつま開教記念法要」
毎年9月5日に修行される「さつま開教記念法要」

 

廃仏毀釈による「焼け残りの阿弥陀さま」

覚照寺には、廃仏毀釈のとき焼け残った阿弥陀如来像が安置してあります。木像で高さは約30センチ、立像ですが腹部から下は焼けてありません。

焼け残った阿弥陀如来像
焼け残った阿弥陀如来像

明治政府は、江戸時代の仏教国教化政策を否定して神道国教化政策を進める上で、明治元年(1868)三月に神仏分離令を発布、神体を仏像としている神社は仏像を取り払い、その波は寺院を潰し、仏像・お経を焼き払う、仏教を廃し釈迦の全てを否定して壊す「廃仏毀釈」として全国に広まりました。

それが全国でも徹底的に行われたのが薩摩藩で、1,616ヵ寺あったお寺は全廃、2,966人の僧侶は還俗しその内3分の1は兵士となったといわれます。薩摩藩でこのような徹底した廃仏毀釈が行われた理由には、(1)藩政時代、僧侶自身も宗門改の役人の改を受け、その職能が他藩の僧侶より狭く、かつ社会的地位もさほど高くなかったこと。(2)民衆のほとんどが「かくれ念仏(浄土真宗を密かに信仰する人々)」の信者で、うわべだけの客宗旨の檀那寺についていた実情があり、お寺と民衆との縁が非常に薄かったことがあげられます。(原口虎夫著・鹿児島県の歴史より)

廃仏毀釈は明治2年から4年にかけて徹底的に行われ、岩川でも2年頃でこの辺りの仏寺は全て取り壊されたのですが、明治5年頃になって、西山集落にはまだお念仏を慶ぶ信者がいるとの噂がありました。そこで岩川の麓の士族3人が西山集落を急撃して、各戸から御絵像やお名号を探し出し、さらに西山計左市(戸籍上は袈裟市)の家で屋根裏に隠してあった木像を探し出し、それらを河原に持ちよせて火を付けて焼いたのでした。

この様子を隠れて見ていた計左市は、士族3人が立ち去ると直ちに焼けている木像を川につけて火を消し、焼け残った木像を持ち帰り、屋根裏の藁の中に隠したのでした。

この木像は廃仏の前は、集落の阿弥陀堂に安置されていたといわれます。

焼け残った阿弥陀如来像は、昭和初期まで計左市の子孫によって護られてきましたが、昭和初期に「覚照寺で永代に安置してほしい」との依頼を受け、覚照寺で護持することになったのです。(参考・大隅町誌)